「西村晃のマーケティングの達人 大繁盛の法則」企業経営・売上アップのヒントを提供

ブログ

バックナンバー

★海外から観客ゼロの五輪なんて・・・

2021年3月23日

東京五輪・パラリンピックの新型コロナウイルス対策を巡り、政府や国際オリンピック委員会などは海外からの観客を受け入れないことを決めた。変異株の流入をなるべく抑え国民の不安を解消するためだ。ただ、国民の過半数が開催を望んでいないという世論調査に加えて、欧米やアジアのメディアもこぞって開催に懐疑的ななかで、それでも開催にこだわるIOC,組織委員会、あるいは日本政府の姿勢が理解できない。
平和の祭典として世界中から人が集う五輪・パラリンピックに海外客が来なければ、大会を招致した意義の大部分は失われてしまう。大会には100万人規模の海外からの観客が来日する想定だった。国内の観客だけに限定し、さらに観客数の上限を競技場の収容数の50%以下にした場合、経済損失は1兆6258億円になるという試算もある 大会のチケット収入は約900億円が見込まれている。販売済みの海外分は63万枚で払い戻しが必要になる上、観客数の上限を50%にすれば大会収入は激減する。また組織委は海外のボランティア受け入れも見送る方針だという。
こんな中途半端な大会を強行するよりも、何年か先に改めて招致しなおすことに全力を挙げるのが組織委員会と政府の務めだと思うのだが、五輪開催を今年秋までに行われる総選挙の材料にしていると勘繰られても仕方がない。国民の安全を人質に誰も反対を言いださず突き進む姿は、戦争へと猛進した戦前の日本政府と合わせ鏡のように見え空恐ろしささえ感じる。また当時戦争反対を主張せず戦時は購読数が増えると戦争へのお先棒を担いだ新聞社と、今回自らがスポンサーの立場にあることで開催中止を言わない日本のメディアは少しも変わらない。世界のジャーナリズムの中で汚点をさらすことは間違いない。

★勤勉の次の一手

2021年3月22日

戦後日本が高度成長を達成した理由として「勤勉な国民性」というものが指摘された。
その勤勉性とはつまるところ何だったのか?
そして本当に日本人は勤勉なのか?
勤勉とはそもそも何を指して言うのか?
その後日本の成長が止まったのは、日本人が勤勉でなくなったからなのだろうか?
 
日本の高度成長の本質は欧米キャッチアップ型の製造業の生産性向上にあった。
勤務時間内にさぼることなく、また需要が多い時には残業や休日出勤も厭わない、そんな工場労働者の勤勉性が日本を支えていた。事実当時の日本の年間総労働時間は欧米に比べて大きく上回っていた。企画やデザインを創造する仕事の成果は労働時間と必ずしも相関するものではないが、工場生産に限っていえば確実に生産量は工場の稼働時間に比例する。
オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックと時代は変遷し、資源の制約や産業構造の変化など経済環境も大きく変化した。その間日本企業でも完全週休二日制の普及、祝日の増加に加えて長期休暇取得の推進などもあり年間総労働時間数は激減した。
日米だけを比較しても1988年にアメリカの年間総労働時間1962時間に対して日本は2189時間と200時間以上多かったのに対して、2003年にはアメリカ1929時間に対して日本は1975時間とその差は50時間を切るまでになり、その後も縮小傾向は続いている。また休日数は現在日米ともに127日とほぼ同じになっている。
日本人の勤勉さとは単なる労働時間が多かったということであれば、この時点で日本の優位性は失われたことになる。
昭和から平成に変わり、外国人労働力を誘致する、あるいは海外に拠点を移すことで「日本人ではなく日本企業の勤勉性」を維持し優位性を確保する取り組みも進められた。
しかしそれも平成の後半から令和にかけてゆきづまりをみせる。
国家の盛衰が工業生産よりもITなどソフト開発力による時代となり、工場労働者の生産性がカギを握る時代では必ずしもなくなったからだ。
年功序列、終身雇用に代表される熟練労働力を抱え込む日本的経営とは違い、優秀なソフト開発者が会社間はもとより国境さえも越えて活躍する時代になった。
勤勉性よりも、個人の創造性を育みいかに活用するかが問われる時代の到来である。
一週間に働くのは三日でも、アイデアを形に変えられる人が勝つ時代である。
そう考えるとオフィスに縛られない在宅勤務、テレワークの時代がコロナ禍で早く来たことは、日本企業に変革を迫り、新しい時代に対応する仕組みつくりの機会と捉えなければならない。
日本の製造業の代表格である自動車産業が、世界のIT産業と戦う自動運転・EV戦争はその象徴でもある。

 

★宣言解除でも気分は晴れない

2021年3月19日


首都圏の緊急事態宣言が解除されることになった。
めでたし、めでたしという人はいないようだ。
東京はじめ大都市の感染者はここにきてむしろ増える傾向にある。
病床状況の改善といった理由よりも、本音は聖火リレー開始に間に合わせたのではという意見のほうが説得力を持つ。
国民の健康よりもまず五輪を開催し、総選挙へという思惑が垣間見えるというわけだ。
変異ウィルスへの不安が出ている中で、世界中から選手や役員を集める五輪大会をやることへの説明がないことに国民の不安は高まる。
ブラジルなど南米やアフリカ、そしてアメリカなど感染拡大が深刻な地域から選手を招請する一方で、国民には引き続き自粛を求めるといういい加減さは、太平洋戦争になだれ込み国民に犠牲を強いた体質と少しも変わらない。
たとえば積極的に辞退届を出した人以外のボランティアに組織委員会は引き続きボランティアをやる意志があるか確認を取っていないが、果たして気持ちよく大会運営に協力してくれるか、家族などから反対がないかなど疑問だらけだ。
疑心暗鬼が春の列島に覆いかぶさっている。

 

★引き際

2021年3月18日

 
現在の日本では65歳定年を採用している会社が多い。
しかし平均寿命が80歳を超えるいま、まだ65歳は元気いっぱい仕事を続けたいのに不本意ながら「老後の生活」を過ごさざるを得ないという人も多いようだ。
人により体力差があるのだから65歳で一律に引退しろということに抵抗を感じるのも事実だろう。
引き際は自分で決める。
サラリーマンには難しいが、スポーツの世界ではそれができるはずだ。
50歳になっても現役を続けるサッカー選手がいてもいい。
白髪が目立っても天才打者ならバットを振り続けることもできるだろう。
相撲はどうか?
体力が衰えて負けが多くなれば番付が下がるから、自分で引き際を痛感するものだ。
では番付が下がらない横綱はどうだろう?
もはや角界の頂点に君臨し責任を果たせないと自覚すれば、自分で引退せねばならない。
それなのに、2年近くも休み続けて休場するたびに来場所は進退を賭けると言いながらさらにまた休みを繰り返すというのは、横綱としての常識に欠けると言わざるを得ない。
相撲は「相撲道」だ。礼に始まり礼に終わる。
神に奉納する伝統ある武道の頂点にある横綱という自覚、責任が感じられないことこそ問題だ。
NHKでは、日本相撲協会に批判的な言動はまずありえない。
中継放送で横綱批判はタブーだ。放送終了後のスタッフミーティングでは散々悪口を言っても、放送本番では当たり障りのないことしか言えないのだ。
大相撲は受信料を全国で徴収する最大武器であり、以前のように民放が放送権を奪いにこないとも限らない。かつて、相撲中継のメンバーだった私は以前から切歯扼腕していた。
引退後の身分保障という横綱の個人的な理由は、引き際で考えてほしくないものである。

★彼岸の入り

2021年3月17日

  
暑さ寒さもというが、暦通り彼岸の入りに合わせて春らしくなってきた。
前橋も梅に早咲きの桜、モクレン、菜の花にスミレと歌詠みには忙しい。
私は今年の彼岸を前から意識していた。
コロナ不況にもかかわらず上昇してきた株価がいつ下降し始めるかと考えたとき、「節分天井彼岸底」と言う兜町の格言を頭に置いていたからだ。
例年株価は年明けから上昇し節分のころに天井を付けた後、三月の期末に利益確定で「売り」が先行しがちとなり、3月後半の彼岸の頃に株価は「底」をつけるという意味だ。
日経平均株価が30年ぶりの3万円を付けたのがまさに節分のころ、その後はやや伸び悩みの状況となっている。
中央銀行の資金供給と、株の買い入れもあり、足元の景気後退にもかかわらず株価は上昇し続けてきた。
もし株価が下落したままであれば今以上に景気は悪化していたと思われるから、これは決して悪いことではなかったと思う。
しかし、アメリカ経済のように「GAFA」のような経済をけん引するような企業群やワクチン製造の世界的メーカーがあるわけでもなく、今の日本経済の状況を考えると現在の株価は実体と大きく乖離し期待値で上昇、実体を伴っていないと思わざるを得ない。
いつか反転の時を迎えると考えるのが自然だ。
それはいつか?
いちばん近い可能性はまさにこの3月期末、あるいは東京五輪の開催がたとえ強行されても大幅に規模を縮小した大会になった時、総選挙で与党が惨敗し政局が混迷した時、そして日銀総裁の交代により金融政策に変化の兆しが現れる時、などが考えられる。
コロナは全治5年と思われるが、たとえコロナが終息してもそのころには日本経済は高齢化ピークとなり、経済環境は相当深刻になっているはず。
日本経済を救うワクチンがまだ見つかっていない以上、株価は近い将来経済の実情を反映したものになるというのが過去の経験則である。

★華やぐ季節に

2021年3月16日

東京はじめ各地で例年よりも早く桜が開花している。
春の到来で心軽やか外に出かけたいところだが、見えない敵の拡大を許さないとも限らず、気は晴れない。
昨年は春分の日前後の三連休に皆が一斉に花見に出かけ、それが感染拡大につながり4月の緊急事態宣言を招いたとされる。昨年の三連休、新宿御苑に出かけたが確かに人出は多かった。入場料窓口の混雑を避けるため入場料無料とし苑内には多くの係が出て、プラカードや拡声器で「密を避けてください」と呼びかけていたが、それでも人の波は続いていた。
あれから一年、まさかいまだにこんな状況であると予想していた人がどれだけいたろうか。
去年の今頃、「コロナで日本経済は全治5年」と言い出したのだが、だれからも相手にされなかった。
しかし、ここにきて「ひょっとしたら」と賛同者を得ている。
もっとも今私は「5年では済まない」と言い出しているが・・・。
明治維新以来の不況は始まったばかり。
すでに銀座などではブランド店撤退、ショッピングセンターでもテナント撤退が相次いでいるが、私はこんなものでは収まらないと思っている。
高輪・品川開発の中止、リニア開業延期、航空会社の淘汰、そして金融機関の統廃合、治安の悪化、デモの暴徒化という近未来を予想すると、花見見物を楽しんでいた時代が相当昔のことのように感じられてならない。

 

★とかくこの世は・・・

2021年3月12日

前橋を5時半に出て東京へ。
高崎で新幹線始発に乗ると7時過ぎに東京駅に着く。
新幹線は余裕で座れる。
朝の勉強会「モーニングエクスプレス」は11月以来、感染拡大で順延が続いていた。
前橋に引っ越してから最初の開催で、5時半に出発するのも初めてのことだ。
引き続き昼の勉強会「コスモス会」も無事に消化することができた。
心配したが両会とも出席者はほぼ今まで通りでまずは一安心。
コロナは全治5年、いかにコロナの中で通常の業務をこなしていくかが大きな課題だ。
東京とその周辺の受講生はきわめて平静、コロナに怖れることなく日常生活を送っていこうとしている。
一方で地方からの受講生は、東京などとんでもないとすでに一年あまり欠席が続いている人もいる。本人はともかく東京なんて行ってくれるなと家族や会社に言われている人もいると聞く。
コロナ感染が騒がれる一方で、この一年間他の病気で亡くなる人は激減している。インフルエンザや肺炎で亡くなる人のほうがはるかに多かった、冷静に対処すればコロナを必要以上におびえる必要はないという意見も聞く。
こればかりは一人ひとりの考え方だから、周囲があれこれ言う話でもない。
どんなに警戒してもしすぎることはないし、警戒していても感染するときはするだろう。そもそもマスクをいくらしてもコロナウィルスが衣服や所持品についていれば防ぎようもない。
自宅に引きこもりすぎて運動不足で他の疾患にかからないとも限らない。
とかくこの世は難しい。

★あの日の記憶

2021年3月10日

 
2011年3月11日午後2時46分。
私は新宿三丁目の京王電鉄ビルで打ち合わせ中だった。
突然の、そしてまるでしけで船が波間を漂うような大きなストロークの揺れがかなり長い時間続いた。頑丈そうなビルの8階だったから、ビルそのものに危険が及ぶとは思えなかったものの、これまでに経験したこともなかった揺れに、話を中断、相手の担当者とともに応接室を出た。
大部屋は騒然、全員が立ち上がり非常用のヘルメットが配られていた。大勢がテレビを取り囲んでいる。
「震度7だ。大津波警報が出た」
「避難だ、みんなエレベーターは使うな」
私にもヘルメットが渡され、社員たちと一緒に階段を下りてビルの外に出た。
「新宿御苑に避難します」
会社の総務の人だろうか、人数を取りまとめて指示をしていた。
ただ私はそれに従うことはためらった。
広域避難場所の新宿御苑に行ってしまうと帰宅が難しくなる。集団で野宿ともなりかねない。
おそらく電車は停まるだろう。となるとクルマしかない。クルマならばたとえ野宿になっても寒さをしのげる。そうだタクシーだ。
高速道路は閉鎖されても、一般道を回ればすべての道路が使えないことはあるまい。阪神大震災の取材時ハイヤーで二週間過ごしたことを思い出す。
さてタクシーをどうやって捕まえるか。
私は新宿通りを新宿駅とは反対方向の、四谷方向に向けて走り始めた。人の群れは新宿方向に向かっている。それとは逆方向に向かう人はほとんどいなかった。
おそらく電車も動かないだろうし、駅周辺はバスやタクシーに乗ろうという人であふれるに違いない。
新宿駅に向かう空車のタクシーを捕まえるためには なるべく新宿駅から遠ざかったほうがいいと考えた。走りながら自販機でペットボトルの水を買い集めた。阪神大震災では自販機が売り切れ、しかも補給できなくなり何日も品切れが続いた。まだ誰も気が付かないうちに体制を整えた。
四谷大木戸近くまで走ってみたが、道路を走っている車は少なかった。
多くの人が建物から外に出ていた。
倒壊している建物はなかったし、ガラスなどの落下物も見当たらなかった。
その後も余震が続いているので、ビルの中にいると不安で外に出ている人が多いのだろう。
私はなおも走り続け反対方向から走ってくるに空車のタクシーをついに捕まえた。
「すみません。横浜の戸塚まで何とかお願いします」
「わかりました。ただ道路状況がわかりませんね」
「おそらく高速道路は閉鎖されると思います。一般道ですが、問題は多摩川の
橋です。橋が壊れている可能性もあります。川崎側に渡れる橋を探しながら行きましょう。ラジオのボリュームを大きくしてください」
クルマが動き出すと周囲の状況に目を配る。多くの人が路上に避難していたが、建物の倒壊などは見当たらない。
タクシーは私が駆けてきた新宿方向に戻りながら明治通りを左折した。
原宿方面に向かうが、何枚かガラスが落ちて割れているところはあったが、このあたりにも大きな倒壊はなかった。
「この先渋谷方向詰まっていますね」
「原宿駅前から明治神宮、宇田川町交番から、山手通り、大橋から国道246号に入り、三軒茶屋方向に進んでください。二子玉川の橋を目指しましょう。ダメなら中原街道という風に、下流の橋で多摩川を渡れるか進んでください」
運転手に頼んでラジオを大きくしてもらった。大津波に飲まれて三陸地方は軒並み大きな被害のようだ。しかしタクシーから見える限りは東京に大きな被害は出ていないようだし、窓を開けて音を聞いているがサイレンも聞こえないところを見ると、大きな火災はないかもしれない。
環状8号に差し掛かったところでひどい渋滞に巻き込まれた。
多摩川にかかる橋がどこも詰まっていて車が流れていないことがナビでわかった。
すでに1時間タクシーに乗っていることになるが、まだ東京都内だ。
「どの橋も詰まっていますね。右折して橋を渡ろうとするクルマがどこも渋滞しているから、環八も動かなくなっちゃいました」
運転手がため息交じりに口を開く。
結局橋を渡り神奈川県に入ったのは6時を過ぎていた。
川崎市内は停電していた。
真っ暗なコンビニが、店の前に停めたヘッドライトを頼りに営業していた。
しかし、荷物を運んでくるトラックは来ないのに、家で夕飯を作れない人が買い込みに来るから品切れのようで、外から見ても店内は略奪にあったように商品がない。それでもなお店を訪れる人は引きも切らないようだった。
 
橋を渡ってもやはりまだクルマは流れなかった。
「この先に踏切があるんですが、電車は停まっているのに警報機が鳴り続けているみたいですよ」
運転手が振り返って言った。
確かに窓を開けると警報機が鳴りやまず聞こえている。
警報機だけでなく遮断機も下りたままになっている。
それを地元の人が何人かで遮断機を手で持ち上げて一台一台車を通しているのだった。
こういう非常時に地元の人が協力しあっている姿に感動した。
川崎を抜け第二京浜道路を少し順調に走ったかと思えばこんどは横浜駅周辺でまた渋滞と、悪戦苦闘は続く。
結局戸塚の自宅に帰り着いたときはほぼ日付が変わるころになっていた。
実に9時間近いタクシーでの帰還となった。
それでも電車は依然停まっていたから、タクシー以外の方法で帰宅することはあり得なかった。ホテルなどに泊まることもできなかっただろうから、帰宅困難者として歩いて帰宅するか、避難場所で一夜を明かすほかなかったかもしれない。
「本当にありがとうございました」
タクシーの運転手にこころから礼を言った。
遠距離の横浜まで辛抱強く付き合ってくれたのだ。
何より感動的だったのは、タクシーの時間メーターを停めてくれていたことだ。
タクシーの場合、走った距離に基づき料金を示す積算方法に加えて、渋滞などで動かなくなった場合でも料金が加算されるように「時間距離併用」で請求する仕組みになっている。この日は東京新宿から横浜戸塚までの距離に加えて、9時間かけて移動したわけだからその時間も料金換算すれば、全部の料金は膨大になるはずだ。
しかしANZEN新宿タクシーの澤田修さんというこのタクシーの運転手は、渋滞でクルマが停まるたびに時間メーターを切っていた。
「こんな時はみんなお互い様です。時間計算はやめましょう」
澤田さんのほうからの申し出だった。感激した。イライラすることもなく、冷静に道を選び長い戸塚までの道のりに付き合ってくれた。
あちこちに連絡を取ったり情報したりでケータイは充電が切れてしまったが、クルマで充電もさせてくれた。
この日払ったタクシー料金は23000円だった。
新宿から戸塚まで普通に乗っても2万円くらいだと思う。9時間以上という時間を考え、帰宅できたことを考えると、本来は10万円を超えても仕方がないと思っていた。
3月11日のあの出会いを忘れない。

 

★甘い話にはわけがある

2021年3月10日

 

 

「あの店のケーキおいしかった?」

「うんあまり甘くなくてよかった」

 

昔は「甘い」ことが「おいしい」の代名詞だったのに、今では「甘くない」ことがおいしさの条件である。

昭和の映画ではよく喫茶店が登場するが、コーヒーに「お砂糖は何杯にする?」と聞かれて、「3杯頼む」なんていうカップルの会話もあった。

いまではそんな人は相当に珍しい。そういえば角砂糖も見かけなくなった。

スティックシュガーは最初10グラムだったが、7グラムになり、5グラムになり今や3グラム。それさえ不要、と言うコーヒーブラック派が主流である。

「午後の紅茶」と言う缶飲料も、甘みの薄い「ストレートティー」が定番人気だったが、その後「無糖」が発売され人気はこちらへ。

羊羹など伝統的な和菓子も使用する砂糖の量はどんどん少なくなっているそうだ。

砂糖が日本に伝わったのは8世紀、ずっと貴重なものだった。江戸時代中期になり国内でサトウキビ栽培と製糖が奨励される。奄美大島などで量産できた薩摩藩はここで得た利益で財を成し、明治維新の原動力にもなった。

またポルトガルとの交易で長崎に砂糖が入り、カステラなどが紹介されるとともに長崎から小倉に至る街道は「シュガーロード」と呼ばれ、砂糖流通の動脈とる。この伝統は今も生き、北部九州には菓子の老舗メーカーが多い。

ところでなんで今日は甘い話なのか?

甘い話にはわけがある。

310日は語呂合わせで「砂糖の日」と言うのだそうである。

 

★春を感じる

2021年3月 9日


啓蟄も過ぎ、上州もすっかり春らしくなった。
コートを脱ぎセーター一枚で散歩も楽しめる。
東京と違い庭つきの一軒家が多く、スミレの花などが色とりどりに春の喜びを奏でている。
青果店の売り場では菜の花やうど,新じゃが、新たまねぎなど春らしいメンバーが大きな位置を占めている。料理番組を参考にそれら素材を活かして調理を楽しんでいる。
先週はクルマで軽井沢まで行ってきた。
1時間ほど、あえて高速を使わず碓氷峠越えを楽しむ。
軽井沢はまだ人は少なかったが、春霞に浅間山が浮かび雄大な景色を独り占めできた。雪止め水が流れるせせらぎは、どこまでも清らか、春の日を浴びキラキラと輝いていた。明るさはもう春であった。
自然を感じ、春を愛でる。
日光浴をしながら読書三昧、人生で一番至福の春を満喫している。

 

前の10件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11