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第37回 4月 大陸への玄関口 敦賀

その日は、3月だというのにみぞれ交じりの冷たい雨が降っていた。
新幹線を米原で下り、北陸線の各駅停車に乗り換えて琵琶湖の東側を北上する。
神戸、大阪方面から快速電車が敦賀まで通じるようになり、この沿線は便利になった。
左に長浜の町が見える。
羽柴秀吉が築城した長浜城は琵琶湖に面してそびえている。
浅井長政の居城だった小谷城は進行方向にむかって右側に位置していた。
京を目指す戦国大名たちが行き交った歴史街道である。

米原から一時間ほどで福井県の敦賀に着く。
日はすっかり暮れ、みぞれは雪に変わっていた。
駅前のホテルを予約しておいてよかった。

早々に就寝、翌日の観光に備える。
ビジネス旅行の途中を使っての敦賀観光である。
これまで全国を旅してきたけれど、仕事がらみだから観光地をゆっくりとみるというわけにはいかず、見落としてきたところも多かった。
還暦を過ぎ、そろそろそんな見落としを埋めてゆく旅をしたいと思うようになった。
そうした旅の一環として今回は福井での仕事のついでに敦賀に立ち寄ったわけだ。

翌朝。
まだ冷たい雨が降っていた。
敦賀駅からの正面通をまっすぐ行き、大きな交差点を右折して進む。
銀河鉄道999のオブジェが街を彩る。


敦賀市内のオブジェ




敦賀市内にはアニメのオブジェがたくさんある

やがて氣比神宮(けひじんぐう)の大きな鳥居が見えてくる。
ここは越前国一宮で、旧社格は官幣大社である。

「北陸道総鎮守」として朝廷から特に重視された神社だった。
社殿のほとんどは戦争中焼失し、戦後再興された。
空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗の鳥居で国の重要文化財に指定されている。
また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名の由来と伝えられている。


気比神宮

神社を見学した後さらに道を歩くと、海岸に達する。
敦賀港に臨む岸壁に「敦賀鉄道資料館」がある。
現在の鉄道駅よりだいぶ海側に位置するが、かつての鉄道駅は海辺にあったのだ。
船との結節点としてこの駅には重要な意味があった。


旧敦賀港駅舎

「新橋発、パリ行きの鉄道切符が売られていた」
こんな話を信じるだろうか?

資料館によると、20世紀初頭、シベリア鉄道を利用するこんな切符が実際に発売され、また鉄道時刻表にも記されていた。
1891年、ウラジオストクとモスクワをつなぐ長大なシベリア鉄道の建設が始まり、1904年に全線開通する。
ウラジオストク・モスクワ間を10日間余りで走り、その先のヨーロッパ各国の交通網と接続する大陸横断鉄道だ。
インド洋経由でおよそ40日かかった船に代わり、シベリア鉄道はアジアとヨーロッパをむすぶ新たな幹線としての期待が寄せられた。
1904年と言えばまさに日ロ戦争が始まった年でもある。
アジアへの関心をしめすロシアと日本との権益が鋭く対立していた。


国際列車の時刻表

もともと敦賀港は、大昔「笥飯浦」と呼ばれ、古代日本では三大重要港のひとつ「敦賀津」として、渤海国や宗国をはじめ大陸諸国との交易で繁栄した。
迎賓館・検疫所・貿易拠点等を兼ね備えた「松原客館」が置かれ、日本の最先進国際都市でもあった。
戦国末期から、現在の東北地方や北海道・千島との交易拠点港として栄え千石船が往来、町には豪商の家も軒を連ねていた。

敦賀港は1899(明治32)年に外国貿易港として指定を受け、1902年には、敦賀とウラジオストク間に直通航路が開設された。
日露戦争後は航路の重要性が高まり、政府は敦賀を神戸や横浜などと並ぶ重要港湾に指定した。

そして1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、新橋駅(東京)・金ヶ崎駅間には欧亜国際連絡列車が運行され、「東洋の波止場」として繁栄したのである。
旧敦賀港驛舎は駅舎を模して平成11年(1999)に敦賀開港100周年を記念して再現したもので敦賀鉄道資料館となっている。


鉄道資料館には貴重な資料がたくさん陳列されていた

「杉浦千畝 人道の道ルートマップ」と書かれた展示館が敦賀鉄道資料館のすぐそばにある。
命のビザで知られる杉浦千畝は日本の外交官だ。
第二次世界大戦中に千畝は迫害から逃れようとするユダヤ系難民に2,000通を超えるビザを発給し、多くのユダヤ人を救った。

千畝は少年期の約10年間を名古屋で過ごした。
千畝の功績を讃えて、当時の居住地付近から出身校である愛知県立第五中学校(現在の愛知県立瑞陵高等学校)を結び、「杉浦千畝 人道の道」と名付けられている。

杉浦千畝は1900(明治33)年、岐阜県で生まれた。
早稲田大学に学び1919(大正8)年に外務省留学試験に合格した。
ロシア語を学ぶ留学生として、ロシア人が多く暮らす中国北東部のハルビンに向かった。
その後千畝は外務書記生に任命され、1925(大正14)年からハルビンの日本総領事館で働き始める。
1937 (昭和12)年に在ヘルシンキ日本公使館に赴任し1939(昭和14)年にリトアニアの在カウナス日本領事館の領事代理となった。


杉浦千畝

当時ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大していた。
国外脱出を図るユダヤ系避難民は、一時避難をしていたリトアニアから、ナチスの脅威が及ばない安全な地域への逃亡を目指していた。

1940(昭和15)年7月18日の早朝、ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ系避難民が、ソ連によるリトアニア併合の動きから早急に国外への脱出の必要を感じ、日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到した。
緊迫した中、千畝は外務省と連絡をとったが「発給要件を満たさぬ者へのビザの発給はならぬ」という指示だった。
しかし千畝はビザ発給を決断する。

「苦慮煩悶の挙句、私は人道博愛精神第一という結論を得た。
何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行したと今も確信している」

千畝は後年こう語った。
千畝が発給した日本の通過ビザを手にしたユダヤ系避難民の多くは、シベリア鉄道に乗り、ウラジオストクの港から船で敦賀港に到着した。
その後、神戸や横浜などを経由し、アメリカ合衆国やカナダなどの第三国に渡った。

千畝が発給したビザを持ったユダヤ系避難民が上陸した敦賀には、過酷な状況で上陸したユダヤ系避難民に果物の入った籠を無償で置いていった少年や、港近くにあった銭湯を無料で開放した話など心温まるエピソードが残されている。
また千畝の出身地である岐阜県八百津町では、千畝を題材にした創作劇が、八百津小学校の児童により毎年行われている。
ビザで命を救われた祖父を持つイスラエル人の少年と日本人少女が出会う物語、題名の「メノラの灯」は、ユダヤ教で使われる燭台を意味している。

1985(昭和60)年、80歳になった千畝に「諸国民の中の正義の人賞」(ヤド・パシェム賞)が贈られた。
これは命がけでユダヤ人を救った外国人にイスラエル政府から贈られる最高の名誉賞である。
千畝に送られた記念のメダルには、「一人の命を救うことは、全世界を救うに等しい」と書かれてあった。


杉浦千畝の資料が展示されている


港から歩いてすぐのところに敦賀市立博物館がある。
敦賀市は古代から天然の良湾として北陸と畿内、東海、そして大陸とを結ぶ海陸交通の要所、江戸時代には北前船の交易拠点として発展した。
近代に入ると本州日本海側で最初期の鉄道が開通するとともに、大陸との直通航路が開設され、敦賀は日本とヨーロッパとを結ぶ国際港として繁栄する。

福井県指定文化財である敦賀市立博物館の建物は、昭和2年に二代目大和田荘七によって建てられた大和田銀行本店を活用したもの。
銀行でありながら市民に開かれたパブリック・スペースを持つという公共性を兼ね備えていた。
北陸初のエレベーターや、レストラン、迎賓室、集会場なども備え、当時の敦賀にとって先進的な建物だった。
近代の敦賀の発展を経済的に支えた大和田銀行は、今日では敦賀市の歴史と文化を守り、伝え広める「敦賀市立博物館」として役割を担っている。


銀行の建物を利用した敦賀資料館

敦賀市にはもう一か所歴史好きには訪ねたい場所がある。
それは「金ヶ崎城址」だ。
金ヶ崎城は別名敦賀城とも呼ばれた。
市の北東部、敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘に築かれた山城で、源平合戦の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられる。
現在でも月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されている。
金ヶ崎城跡のふもとには、足利氏と新田義貞の戦いで城の陥落とともに捕縛された恒良親王と、新田義顕とともに自害した尊良親王を祀った金崎宮(かねがさきぐう)がある。

1336年(延元元年/建武3年10月13日、足利尊氏の入京で北陸落ちした新田義貞が入城したが軍勢に包囲され兵糧攻めにされる。
義貞らは密かに脱出し、杣山城(福井県南条郡南越前町)で体勢を立て直す。
義貞は金ヶ崎城を救援しようとするも足利方に阻まれる。
足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ落城した。
その後一時義貞が奪還するが、足利方の越前平定により越前守護代甲斐氏の一族が守備した。

戦国時代には朝倉氏が越前を掌握した後は朝倉氏一族の敦賀郡司がここを守護していた。
郡司朝倉景恒は織田信長に対し開城する。
しかし浅井長政が離反して近江海津に進出し挟撃戦になったため、信長は木下藤吉郎(豊臣秀吉)らに殿(しんがり)を任せ、近江朽木越えで京に撤退した。


金ヶ崎城跡

みぞれ交じりの雨の中、北風吹き付ける敦賀の町を歩くのは大変だったが、半日かけて主な観光スポットを回り午後からの仕事に向かった。

わざわざ敦賀にだけ東京から観光に来るということはまず考えられないだけにこうした機会を活かせたことに充実感にあふれた経験だった。