「西村晃のマーケティングの達人 大繁盛の法則」企業経営・売上アップのヒントを提供

西村晃の路地を曲がれば、もう旅人

第41回 12月 西村晃のイベリア半島を行く

第1日 8月25日(土)

突然ポルトガルとスペインに行くことになった。
5月末、旅行会社クラブツーリズムの霜田正明取締役が至急会いたいと言ってきた。
何事かもしらずエキナカの喫茶店というあわただしい所で待ちあわせると、

「チャーターの直行便でポルトガルに行くという初めての試みで、どのくらい集まるか見込みが立たないので協力してくれないか」

という唐突な話だった。
正直ポルトガルもスペインも考えたこともなかった。
バルセロナオリンピックの前の年に競技施設などを見に行ったことはあったけれど、それ以来まったく考えたこともない地である。

「イベリア半島は近年シニア層を中心に人気の観光地です。世界遺産とグルメを楽しむ旅を企画したんですが、西村さんの経営者セミナーの方々にお声がけしていただけませんか。もちろん先生が行かれるかが第一条件です」

霜田さんにそう言われて、とりあえずスケジュールを調べようと手帳を開く。

(8月25日からの9日間なんて空いているわけがない)

と思って見ると、なんと空いていたのだ! もともと毎月入る仕事の日程が夏休みで入っていないこと。そして8月25日に大曲の花火大会を是非見に行きたいと、前後の予定が入るのをブロックしていたからなのだ。

苦労して秋田の宿をとり、その前後を東北旅行の日程で埋めていた。

(大曲の予定を大きく曲げればイベリアに行けるのか)

大曲の花火は来年以降見られるが、この話は今年限りか・・・・。
そう思うと、突然の誘いに心が揺らいだ。

ただ、私が声をかける相手は企業経営者たちだ。5月末の段階で夏休みのスケジュールが決まっていないということはまずありえない、これまで何回も海外セミナーを行ってきたが、だいたい1年前から予告して、早くから予定を組んでもらってきた。
クラブツーリズムの通常のお客さんのようにリタイア族を対象にする旅行とは意味が違う。
半信半疑ながら、考えている時間もないので独自カタログを制作して5月6月に自らの経営者セミナーで配り説明した。

しかし、反応は芳しくなかった。

「夏休みまであと2か月しかないのでもう海外旅行の予定は組んであります」
「だいたい月末8月25日出発なんて、中小企業の経営者では無理ですよ。銀行の支払いなど月末は留守にできないんです」
「お盆休みが明けて会社が始まりますという時期にまた長期の休みなんて、社長寝ぼけないでくださいって言われますよ」

これまで海外セミナー常連だった人はほとんど参加できず、結局集まったのは18人だった。


出発当日

参加者とクラブツーリズム霜田正明取締役、小川順子ツアーディレクターと私の総勢21人は成田空港を出発した。
今回のツアーは全日空787型機をクラブツーリズムがチャーターした。
通常だとポルトガル第2の町ポルトへの直行便はない。
ジャンボの時代では給油が必要だった。航続距離の長い中型機だから可能な今回の直行便でもあった。
およそ13時間。成田を9時半に出発しポルト到着は現地時刻15時過ぎである。
ロシア上空を8時間飛び、その後ヨーロッパ8か国を経てポルトガルへ。


ポルトまでチャーター直行便で13時間ほど

ポルトガルがエンリケ航海王子のもと海洋へ本格的に乗り出したのが1415年、南アフリカ最南端喜望峰にたどり着くまでに70年かかっている。
そのあと種子島に漂着するまで60年、つまり日本に来るのに130年かかったわけだ。
それを考えると遠いポルトガルまで13時間で着くのだからやはりすごいことだ。
130年と13時間、
その時空を超えた旅が始まる。

日本にいるとあまり気が付かないが、外国人観光ブームは日本だけでなく世界的な傾向だ。
いまは第二次海外旅行ブームある。
第一次はジャンボジェットが就航した1970年代、海外旅行料金が大量輸送により大幅に値下がりした時だ。
そして今はLCCの普及により発展途上国の人でも海外旅行に手が届くようになった。
今後「大旅行時代」はますます活況になると予測される。
こうした時代背景のなか、世界の二大航空機メーカーでは戦略が二つに分かれた。
ヨーロッパのエアバス社はジャンボを上回る二階建て大型飛行機A380の需要が増えると予想した。
それに対してアメリカのボーイング社は中型機の需要が列車やバスからシフトするとよみ、経済性に優れた787型の開発に力を入れた。
この戦略を全面的に支持したのが日本の全日空だった。
世界でいち早く大量発注を行い、ボーイングの販売戦略に全面的に協力したのだ。
ところが、就航早々にエンジントラブルが発生、エンジン改善を国土交通省から命じられ、一時運行停止命令を受けた。
その後改善策を講じて国際線国内線で活躍を始めていたが、今年春以降ロールスロイス社製のエンジン部品の摩耗が激しく部品交換のため順次欠航を余儀なくされている。
しかしながら全日空の意見を大幅に取り入れ、旅客機で初めて温水洗浄便座を導入するなどアメニティに対する評価は高い。


現地時間15時半ポルト着。
通関に長蛇の列、人口40万足らずの小さな都市の空港で大きな飛行機が来ることが想定されていないようで通関窓口が少なく時間がかかった。
荷物をピックアップしてバスで20分ほどで市の中心部のホテルへ。
「インファンテ・デ・ザグレス」はこじんまりしているが市内では最高級ホテルだ。街に中心部でどこへ行くにも歩いて行かれる。
チェックイン後、三々五々夕食に出る。
私は10人前後でガイドの小川さんの案内で、近くのレストランへ。
ワインにホタテをチーズなどを混ぜてグラタン風にしたもの、キノコ料理、サラダなどを注文したが、味は日本人にも受け入れられるものだった。
部屋に戻って時差ボケもありすぐにベッドに入ったが、深夜外の喧騒で何度か起こされた。
土曜日で夜の賑わいは翌朝まで続く。
日没が遅く、人出も日本の感覚よりかなり遅い。
やがて疲れが勝って、気にせず寝入ってしまった。


第2日 8月26日(日)

ポルトの夜明けは遅い。
6時に散歩に出るがまだ真っ暗だった。
世界遺産になっているポルトの町を歩く。
日本の8月の感覚ではだいぶ寒い。
長袖を着てホテルを出る。

市役所から伸びる大きな通りを歩いてサン・ベント駅を目指す。
この辺りが周囲に歴史的建造物が点在するポルト観光の中心地だ。
1900年、修道院の跡地に建てられたサン・ベント駅は、重厚感漂うクラシカルな外観だ。
ポルトガル人建築家ジョゼ・マルケシュ・ダ・シルバによって、フランスのボザール様式の影響を受けて設計されたという。


サンベント駅

駅構内に足を踏み入れると、壁一面に青白いアズレージョのタイル壁画が広がっていることに驚かされる。
アズレージョとは、ポルトガル伝統の装飾タイルのことだ。
14世紀初頭にスペインのセビーリャから輸入したムーア人のタイルが起源で、これをもとに16世紀からはポルトガル独自のタイルが制作され始めた。
ポルトガル建築の外壁や内壁に用いられるアズレージョは、装飾目的であると同時に、室温管理の機能も果たしている。
サン・ベント駅構内のアズレージョは、ポルトガルを代表するアズレージョ画家、ジョルジュ・コラコによって1930年に制作されたものだそうだ。
ジョアン1世のポルト入城やセウタ攻略などポルトガルにおける歴史的な出来事が描かれている。
まさに、青のタイルで表現された壮大な歴史絵巻。爽やかであると同時にどこか神秘的な雰囲気が漂う。


駅構内のタイル壁画アズレージョが美しい

駅からさらに歩き、ドウロ川にかかるドン・ルイスⅠ世橋まで来たところで日の出を迎えた。
高い橋の上から川を見下ろす景色は壮観だ。
セ大聖堂の巨大な建物をみて、ホテルに帰る。


ドウロ川の夜明け

朝食のビュッフェはチーズと果物などが充実していた。
盛り付けが美しく洗練された入る。散歩の後で食も進んだ。

一休みしてロビーに集合、ポルト見物の一日が始まる。
観光バスに乗って、最初は先ほどひとりで立ち寄った「サン・ベント駅」に行き、あらためて小川順子ツアーディレクターの説明を聞く。
続いて「ボルサ宮」へ。

名前に「宮」がつくことから宮殿と思いきや、実はポルトの商業組合本部であり証券取引所として使用されていた建物だ。
19世紀に建築され、内部には裁判が行われていた「法廷の間」やスペインのアルハンブラ宮殿(1982年に世界遺産登録)を模倣した「アラブの間」、「黄金の間」などがある。
日本人として興味深い場所が「紋章の間」だ。
ここにはポルトガルの紋章を囲んで、ポルトと関わりの深かったオーストリア=ハンガリー帝国、ザクセン、フランス、イタリア、ベルギーなど19カ国の紋章が描かれているが、
2015年「紋章の間」の壁画修復作業中に、ザクセン王国(ポルトガル王フェルナンド2世の出生地)の紋章の下から徳川家の「葵紋」が発見されたのだ。
江戸幕府は、1860年にポルトガルと修好通商条約を締結し、その後1865年にはポルト国際博覧会に徳川家から使節団が派遣されたのでその記念として描かれたのではないかと考えられているという。
こんなに遠い国と歴史上つながっていた日本の姿がこんなところで浮かび上がって興味深かった。


ポルトのシンボル「ドン・ルイスⅠ世橋」

歩いて船着き場へ向かう。
ドウロ川はイベリア半島を流れる重要な川だ。
スペインのソリア県を水源とし、スペイン北部を流れポルトガルに入り、ポルトから大西洋に注いでいる。河口はもうすぐそこだ。
全長は897キロ、ポルトガルを流れる下流では小型船が航行可能だ。
この地域の沿岸では、小麦やワイン用のブドウの栽培、羊の放牧などが行われている。
この川がスペインとポルトガルの国境線になっている。
川は狭い谷間を作り互いの侵入に対する障害となっていた。
ポートワインは、この地域のブドウを使って作られる。
多国籍のワイン業者が所有する農園が川岸に向かって斜面一面に広がりその様子は美しく観光資源でもある。
ここで造られたワインは下流に運ばれ、ヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアで樽に詰められ地下で貯蔵される。
かつてはワインの輸送には平底の船が使われていたが、その後いくつかのダムが建設されたためトラックによる輸送に切り替えられた。
そんな説明を聞きながらおよそ1時間の観光クルーズはとても気持ちがよかった。


ドウロ川クルーズは人気

ポルトの町は、青銅器時代の後期、紀元前8世紀頃。
当初から地中海と結ぶ重要な港町であった。
ローマ軍が進駐すると、首都ブルガとローマを結ぶ拠点となる。
その時代にこの町はカレと呼ばれ、カレの港「ポルトゥ・カレ」がこの国の名ポルトガルとなった。
997年にフランス・ブルゴーニュの貴族であるエンリケ伯爵が、教会や平民騎士、十字軍、テンプル騎士団などの支持を得てレコンキスタ(国土回復運動)を起こす。
これによりエンリケ伯はポルトゥ・カレ伯となる。
その息子でポルトの北東30キロのギマランエスに生まれたアフォンソ・エンリケスがレコンキスタを達成し、カスティリア王国(現在のスペインの一部)から分離独立して、ポルトガルの初期王朝が始まる。

しかし一時は強権を持った王家も、14世紀後半の黒死病(ペスト)がヨーロッパを襲ったころから衰退する。
黒死病を恐れた貴族や地主が恐怖にかられて教会や修道院に土地財産を寄進、国王の税収が減少したのが原因であった。
隣のカスティリア王国が再び食指を伸ばしてきたことも影響し、世継ぎを残さなかったフェルナンド王の代わりに、第二のアヴェス王朝が興る。
この時にイギリスの弓兵の助力を得たことから、これ以降、カスティリアとの対抗上イギリスとの同盟が強化されることになる。
イギリス軍はたびたび出動して、この国を救った。

このあたりの歴史がポルトの町が形成される重要な背景となっている。
国王と教会は所領と裁判権をめぐって激しく争ったが、何せ当時はローマ・カトリックの文化と宗教が教育も含めて民衆を強く支配していた。
ポルト中心部にはローマ以来の道が残っている。
その道に平行して駅からカイス・ダ・リベイラに至る車道はかつて川であった。
下水溝となっていた様子が、川口の所でよく分かる。
この川はまた司教と王との課税境界線でもあった。
つまり司教は高台にふんぞり返り、王は低地に館を建てていたと言う図式が見えてくる。
対岸のヴィラ・ノヴァ・デ・ガイアも、こうした司教との軋轢から、王が開港したとも伝えられている。
こうして聖職者に集まった富は教会や修道院に蓄積された。
金色に輝く豪華絢爛なサンタ・クララ教会やサンフランシスコ教会を見るにつけ、宗教の力がいかに強力であったか思い知らされる。
そして王家の収入が半減し、貴族も地代収入が減るという経済的危機の打開策として海外進出を選んだのが、大航海時代のきっかけとなった。

14世紀の半ば、ポルトのカイス・デ・リベイラの西にあるエンリケ航海王子広場と道を隔てたところの生まれたエンリケ親王(エンリケ航海王子)は、キリスト騎士団長として、この遠征航海を積極的に主導した。
北部ミーニョ地方のヴィアナ・ド・カステロやポルトで船を建造し、乗組員を募ってアフリカ北岸を攻めた。
その時、市民は町の中の肉類をすべて旅立つ船に持たせ、自分たちは残りの臓物で我慢したところから、モツ(トリッパ)喰いのポルト人を意味する「トリペイロ」の異名が生まれた。
ともあれエンリケ航海王子の行動は金と奴隷の獲得を容易にし、この国に膨大な富をもたらした。
それとともに、マデイラ島を含む大西洋諸島でのサトウキビ栽培、アフリカのギニア湾への進出、ヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰経由のインド航路の開拓、アジアの香辛料獲得、ブラジルの領有と続く。
こうしてポルトガルの全盛時代の端緒を作ることともなった。

ドウロ川クルーズの船着き場あたりはたくさんの土産物店や飲食店が並び、観光客でごった返していた。
一休みして、小道を歩いて聖サンフランシスコ教会へと向かう。
小高い丘の上にあるゴシック様式の教会でバロック様式の内部装飾がきらびやかで世界遺産にも登録されている。
ポルトでフランチェスコ会が設立されたのは13世紀だが、修道士たちは反感を買い他の会派に属する聖職者や世俗の信徒から迫害された。

ローマ教皇インノケンティウス5世の教書により修道院としての土地が彼らに寄進され、聖フランチェスコへ捧げる小さな教会が建設された。
修道士たちは、ポルトガル王フェルナンド1世の元でこの小さな教会を拡張しゴシック様式のこの教会を建設した。
多彩色の花崗岩でできた聖フランチェスコ像が入り口隣に立っている。
その後いくつかの貴族家がこの教会を菩提寺とし、礼拝堂が、金箔を貼った木工細工で大いに装飾された。
最初の教会建築がすっかり隠されてしまった。
金メッキの木は完全に、側廊の屋根、柱、窓枠、礼拝堂を覆った。
バロック期の金箔細工はゴシック建築の教会と調和していないが、内部装飾はポルトガルで最も傑出したものの一つとみなされている。
この富はフランチェスコ会の清貧さと完全に不一致であり、ポルトの町の聖職者の肉体に刺さるトゲとなって、彼らは信仰のための教会を閉じた。

教会見学の後、バスでランチのレストランへ。
中心部から少し離れたところにあるレストラン「オ・トリぺイロ」は地元の名物料理を食べさせる店だ。
鰯の唐揚、鰯のマリネ、タコのサラダ、タコの天婦羅、タラ料理各種とポルト名物モツの煮込みが出た。
しかしモツは苦手な人が多いようで、かなり残ってしまった。

午後はドン・ルイスⅠ世橋を渡りドウロ川の対岸にあるポートワインの醸造所を見学する。
私たちが訪ねたのはもっとも著名なポートワイン醸造所の「サンデマン」である。
ここのマント姿のトレードマークは世界最古のブランドともいわれている。
ポートワインは日本に初めてもたらされたワインとされており、その出荷港がポルト港であったためにこの名が付いた。
ドウロ川沿岸が産地。
原料となるブドウの品種は多彩で全29種にも上る。
発酵途中にブランデーを加えるため甘口である。
ポートワインには以下のタイプがある。

●ルビー・ポート : 若い甘口で熟成期間が2-3年と短く、果実香が豊か。もっとも一般的なタイプ。
●ホワイト・ポート : 白ブドウを原料とする。甘口から辛口まである。
●トウニー・ポート : 黄褐色をしている。熟成期間は10年程度。安価なものから高級品まで。
●ヴィンテージ・ポート : 作柄のよい年に収穫されたブドウだけで作られる高級品。


著名なポートワイン醸造所の「サンデマン」

酒精強化ワインは気温が高く温度管理が難しいブドウ栽培地域で酸化・腐敗防止など保存性を高めると同時に、味わいに個性を持たせるために工夫されたワインのことだ。
保存性の良い酒精強化ワインは長期の輸送に耐えるため、船便による遠国への輸出にも向いていた。
特にスペインやポルトガルのものは、18世紀に英仏関係が悪化してフランスとの取引が低迷したイギリスへワインを輸出するために発達した。
酒精強化は液中のアルコール分が一定量を超えると酵母が働かなくなり糖の分解が止まる現象を利用している。
添加アルコールにはブランデーが多く用いられる。
通常のワインのアルコール度数が概ね10-14度であるのに対し、酒精強化ワインは18度前後になる。
発酵のどの段階でアルコールを加えるかで甘口・辛口の違いが生じる。
基本的に、未発酵もしくは発酵途中に加えると糖分が多く残るために甘口、発酵後に加えたものは辛口となる。
食前酒(アペリティフ)または食後酒(デザートワイン)として利用される。
前者は酒精強化ワインの高いアルコール分による胃への刺激、食欲の増進を期待したもので、辛口のドライ・シェリーなどが好まれる。
後者としては、消化の促進とともに食後の満足感を高める甘口のものが向く。
飲用の他、菓子の風味付けや料理のソースなどにも利用される。

日本語に堪能な説明係がトレードマークと同じマント姿で、案内とこのような説明をしてくれた。
見学の最後にワインやチョコレートに土産を買い、一度バスでホテルに戻った。

夕食は希望者はディナーと夜景のドライブツアーとなる。
レストラン「Muralha Do Rio」でシーフードのリゾットを中心にした食事を楽しんだ後、再びドウロ川のドン・ルイスⅠ世橋のたもとからポルト市内の夜景を鑑賞した。
高台から見下ろすポルトの夜景は幻想的だった。


第3日 8月27日(月)

朝食を済ますとバスは7時に出発した。
ポルトからサンディアゴ・デ・コンポステーラへと向かう。
午前中に240キロ走り、昼のミサを見学する日程だ。
バスは、日本と変わらない緑の多い平地をひた走る。
これから先には荒涼としたとりが続くが、この辺りはまだ雨も多く緑も多い土地である。

ポルトガルは小国ながら文化・気候・地形の面ではきわめて多様な地域だ。
気候は南と北では極端に異なっている。
アルガルヴェ地方は夏は乾燥期が6ヶ月も続くが、ミーニョ地方ではわずか2ヶ月である。
リスボンやアルガルヴェでは霜はほとんど降りないが、ベイラやトラス=オス=モンテスの高原は毎年降雪がある。

一度サービスエリアで休憩したが、それ以外はほとんどみなバスの中では寝ていた。
3時間半ほどで聖ヤコブが眠るキリスト教の聖地として知られるサンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた。


サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂

イベリア半島北西端に位置するサンティアゴ・デ・コンポステーラは、エルサレム、ローマに次ぐキリスト教3大聖地のひとつだ。
9世紀初めに聖ヤコブ、すなわちサンティアゴの墓がこの地で発見されて以来、ヨーロッパ各地から数多くの巡礼者が訪れる聖地となった。
ピレネー山脈からスペイン北部を横断したサンティアゴへといたる巡礼の道、カミノ・デ・サンティアゴはおよそ800㎞ある。
今も年間およそ10万人が中世の人々が歩いたのと同じ道を徒歩で、自転車で、あるいは馬でたどる巡礼者たちの姿を目にすることができる。
サンティアゴ・デ・コンポステーラへはおもにフランス各地からピレネー山脈を経由しスペイン北部を通る道が通じている。
途中には11世紀の礼拝堂を修復した宿泊所などもあり、こちらの宿では中世さながらの「洗足の儀式」が行われる。
巡礼者の足を水で清め、旅の無事を祈る。食事も用意される。
これらは巡礼を支える人々の無償の奉仕で成り立っている。
大聖堂の5km手前にある「モンテ・デル・ゴソ(歓喜の丘)」。巡礼者はここで初めて美しい聖地の姿を眼にする。
徒歩でおよそひと月の道程。大聖堂に到着した巡礼者は、「栄光の門」と呼ばれた入り口に向かう。
そこには幾千万もの巡礼者がもたれるように祈りを捧げてきた柱がある。手のくぼみのあとが歴史を物語っている。
巡礼路のうちスペイン国内の道は、1993年に「サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」としてユネスコの世界遺産に登録された。

今回私たちが聖堂見学で、最大のポイントと考えていたのが「ボタフメイロ」の見学だ。
巡礼地の目的地である大聖堂に存在する著名な巨大振り香炉。この香炉は焚いた香を入れた後、聖堂内を振り子のように振る儀式に使われている。
「ボタフメイロ」とはガリシア語で「煙を吐き出すもの」の意味だ。世界で最も大きな香炉の一つで重さは80キロくらい。高さが1.6メートルもある。
通常は教会の展示室に置かれているが、重要な宗教儀式が行われる際には大聖堂に運ばれて滑車から伸びるロープに繋げられる。
このロープは20年くらいで交換される。ロープは外れないように複雑な結び方でボタフメイロと繋ぐ。
香炉を振る時は、初めは人力で香炉を押して始まる。8人の赤いローブを着た男性がロープを引っぱり、徐々に香炉の振り幅が大きくなっていく。
振りによって翼廊の天井近くまで香炉は届くほどになる。まるでサーカスを見るようだ。
聖堂に集った民衆に香が行き届くように振られる。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に到着する巡礼者は疲労し不潔な状態の者が殆どだったという。
ペストや伝染病が猛威を振るった時代に、香は病の予防効果があると信じられていた。
そこから始まったのがボタフメイロなのだ。


「ボタフメイロ」の儀式

ミサを見学後、大聖堂を巡り外にでる。
サンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルの裏側には免罪の門がある。免罪の門は1611年に名匠マテオの手によって作られた。
預言者の像で飾られている。キンターナ広場はその門に面していて、7月25日の聖ヤコブの日が日曜日と重なる聖年にのみ門が開く。
広場には、この門の他にも、歴史的建造物に面しているので常時、観光客や巡礼者で賑わっている。
広場の周囲に元王立病院がある。現在ここは宿泊施設だ。
「パラドール」と呼ぶ。スペイン語で休息所の意味があり、通常スペイン、プエルトリコなどスペイン語圏にある比較的高級な、あるいは高級そうなホテルの名称に使われている。
スペインでは古城などを改装したり、景勝地に新しく建てた半官半民の宿泊施設である。

聖堂周辺の見学も終えて、近くの「San Jaim」というレストランの落ち着く。
ここでガリシア風スープとステーキのランチを食べたが、午前の大移動と、それに続く見学で一同やや疲れ気味だった。

大聖堂近くのNHコレクションホテルにチェックイン。
夕食はタクシーですぐの「Don Quijote」で海鮮料理を堪能した。
小川さんのなじみの店ということで店主が様々なメニューを用意してくれた。

毛ガニ、イチョウカニ、タカアシカニ、ムール貝、ホタテ貝、にしき貝、マテ貝、エビなどが次々に大皿で出てきた。
塩ゆでなど素朴な調理で素材の味を楽しめるものが多く、皆こんなにたくさんのシーフード゙を一度に食べたことはないと興奮していた。



第4日 8月28日(火)

本日の予定はサンティアゴ・デ・コンポステーラを出発し、途中レオンを経由しバスク地方へと向かう。
走行距離650キロ、バスの旅としては一日に走る距離としては限界に近い。日本なら東京から姫路くらいの距離になる。

バス出発は7時半、午前中は4時間半走り昼前にレオンに着く予定だ。
車窓から見える景色は広大、最初は緑も多かったが、次第に赤茶けた如何にもスペインらしい原野が広がりだす。
これまでテレビなどで見知ったイベリア半島の風景だ。
スペインという国が世界史の舞台に統一国家として登場したのは、1479年、カスティリヤのイザベルとアラゴンのフェルナンドが結婚して主権連合を宣言したときに始まる。
この二人は1492年、イスラム教徒の最後の拠点グラナダを陥落させて、700年にわたった国土回復運動に終止符を打った。
8世紀以来イベリア半島を支配してきたイスラム教徒がようやく駆逐された。
実は同じ年の10月、コロンブスが今日の西インド諸島に到着している。
ヨーロッパ人からすれば「新大陸」の発見であり、スペインは大帝国への輝かしい第一歩を踏み出した。世界が文字通り一つに結ばれて世界史が生まれる始まりでもあった。
フェリーペ二世の時代には、スペインの繁栄は絶頂に達した。
この頃のスペインは、フランスとの敵対関係、イスラムのみならずプロテスタントとの戦争、オランダの独立運動などの難問題を抱えていたが、それでも1571年レパントの海戦でトルコの軍隊を破り1580年にはポルトガルを合併してイベリア半島の政治的統一が成った。
また、新たに首都となったマドリードには絶対君主の栄華をきわめた宮廷生活が出現した。
しかし、繁栄の裏にはすでに衰退の影がしのび寄っていた。
1588年、オランダ独立戦争を援助したイギリスに制裁を加えようとして送った「無敵艦隊」と誇ったスペイン海軍が、イギリス海軍の前に壊滅した。
これは、イギリスとスペインの運命の分れ目といってよいかも知れない。以後スペインは没落に向かう。
日本にはじめて現れたヨーロッパ人はポルトガル人であった。
1543年、種子島に漂着したポルトガル人がもたらした鉄砲は、封建日本の戦術を一変させた。ついでフランシスコ=ハビエルをはじめとしてスペイン・ポルトガルの宣教師が日本で布教を開始して、日本人の視野を一挙に拡大した。
ここに日本とヨーロッパとの関係の発端があった。50年後、九州にオランダの黒船が現れて日本との通商が始まる。
スペイン・ポルトガルから新興のオランダ・イギリスに通商の主役は変わる。17世紀に『ドン=キホーテ』が書かれた頃には、世界にまたがるスペインやポルトガルの座はすでに失われていた。
スペインは1580年ポルトガルを合併するが、オリバレス首相の統一政策が強硬でポルトガルとカタルニアの反乱を招き、ポルトガルを再び失うことになる。
経済的に衰微したカスティリヤが富裕な他の地方を支配することは無理であった。
その後2世紀にわたって、経済力と政治力との分離が続き、旧来の地方分立の傾向が再び復活した。
また、王室の官職は世襲化一種の閉塞的階層をとなり、またきびしい年功序列制のために、要職についた官吏は中高年者ですでに職務に対する意欲に欠けていた。
さらに、賄賂などによる道徳的腐敗も始まった。
『ドン=キホーテ』の中でも官僚の無能ぶりはきびしく批判されている。女王イザベルが、コロンブスの新航路発見の航海を援助した裏には、東方の国々の協力でトルコに対して十字軍を編成し、外敵に向けて国内の求心力を高める意図もあった。
しかし、コロンブスはこのような十字軍、あるいは再征服には無関心だった。
ジェノヴァに生まれ、ポルトガルとアンダルシア地方に住んだことのあるコロンブスは、むしろ中世の商業の伝統を引いていた。
新大陸の征服でアステカとインカの廃墟の上にスペインの新帝国は成り立ったが、スペインの最大の失敗は、海外から流入する金銀を浪費するだけで自国の経済的発展にはつながらなかった。
ペルー北部のポトシ銀鉱の発見で、銀の産出量は金を超えた。ただインフレーションの最大の原因は銀の流入ではなく、新大陸の発見による需要の増大に見合う農業生産力の基礎が乏しかったことにあると考えられている。
スペイン王室は羊業者を保護し、農業を奨励しなかったため国民は飢餓に苦しんだ。王室は民衆の苦しみには目を向けず、外国の商品を新大陸に輸出して貿易の利潤を高めようとした。
銀は、イギリス・オランダなどの商人の手に落ち、スペインの産業は次第に他のヨーロッパの国々との競争に敗れてゆく。
新大陸にはやがてスペイン本国に類似した生産構造ができ上がり、メキシコには生糸産業が成立し、ペルーは穀物・ぶどう酒・オリーブ油などを産出し始めた。
このようにして16世紀の終わりには、スペインと新大陸の経済は分離し始めた。フェリペ二世時代、スペインはヨーロッパの反宗教改革の拠点となった。宗教的なファナチズムは軍国主義と結びつき不毛な戦いによって国を疲弊させた。
また、フェリペは1558年には外国からの書物の輸入を禁じ、外国への留学を禁止した。文化的鎖国は、科学・技術の後進性を招きヨーロッパの近代思想はスペインには根付かなかった。
日本に多くの宣教師を送ったイエズス会はこのような精神的風土の中で生まれた。イエズス会は今まで修道院にこもって祈禱と瞑想に日を送っていた僧侶たちに兵士としてのきびしい訓練を施した。
イエズス会の僧侶たちは、インド・セイロン(現スリ=ランカ)・中国・日本などでも布教活動を行ない、反宗教改革の尖兵となった。
しかし強大化する教会は、聖職者の数、独身者の数を増加させ、生産活動に従事する人口は激減、貴族・僧侶は人口の7分の1を占め社会の寄生虫となっていた。

そんなスペインの歴史を復習している間に、昼前私たちを乗せたバスはレオンに着いた。
レオン県の県都で人口は13万人あまりだ。

中世にはレオン王国の首都が置かれていたため、有名なゴシック様式のレオン大聖堂やその他多くの記念建造物がある。
サン・イシドロ聖堂は、かつてのレオン王国歴代国王や王家の人々が埋葬された霊廟であり、ロマネスク様式の絵画を多く収めている。
市内にあるカサ・デ・ボティーネスは、建築家アントニオ・ガウディが初期に設計したもので、現在は銀行だ。
かつてサンティアゴ騎士団の本拠として16世紀に建設されたサン・マルコス修道院は、現在パラドールとレオン美術館として利用されている。


美しいレオン大聖堂のステンドグラス

レオンは復活祭のようなフエスタで知られている。
レオン市民による礼拝行進は国内外から観光客を集める有名な伝統行事だ。
レオンは紀元前1世紀、ローマ軍団第6軍団ウィクトリクスによって建設された。68年、第7軍団ゲミナが恒久的な軍事キャンプを創設し、これが市の原型となった。
域内で採掘される金の輸送を取り締まっていた。タキトスは旧第7軍団クラウディアと区別して軍団をガルビアナと呼んだが、ローマ以後のレオンは、レオン王国の歴史が占める。
アストゥリアス地方にあったローマ軍団の基地は、重要な都市に成長し、586年まで西ゴート族の攻撃に抵抗し続けた。
西ゴート王リウヴィギルド(en)に征服されたのちもレオンは、西ゴート王国が要塞の維持を許した数少ない都市の一つだった。
イスラム勢力との抗争時代、ローマ人が山岳民族の侵入から平野を守るために建設した要塞は、スペイン独立の最後の避難所として、山地を覆った進化した地位になった。
レオンはサンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の拠点の一つであった。
貿易商人と職人のための郊外が13世紀以降ふくらみ、自治対政府の影響を受け始めた。
中世初期、家畜の飼育が市繁栄の時代を築いた。町の中心にそびえる「レオン大聖堂」はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の途上にあり、古典的なフランスゴシック様式の洗練された様相を持つ。
世界最大級のステンドグラスが特徴だ。

昼食は大聖堂近くのレストランPabloにて、シェフのお任せランチを楽しむ。
昼食後は再びバスに乗る。午後はさらに300キロ以上走らなければならない。
いよいよバスクと呼ばれる地域に入る。

バスクという呼称は、ローマ人の命名したバスコニアに由来するが、バスク人たちは自らを「バスク語を話す人々」」と称する。
この呼称は、19世紀後半に始まる民族運動の中で登場した。
総称としてのバスク地方となると、スペイン側のバスク三県にナバラ県を加えた四県と、フランス側のラプルディ、スベロア、ナファロア、ベエレアの三県の合計七県をさす。

黒いベレー帽(ボイナ)をかぶり、難解といわれる起源不明のバスク語(エウスカル)を守り続けている彼らは、自らの生活習慣・信条を変えることなく、山岳・丘陵地帯を離れずに質素な生活を何千年と続けてきた。
1990年から91年にかけての旧東ヨーロッパ諸国の民主化、旧ソ連邦の崩壊、バルト三国、スロベニア、クロアチアの相次ぐ独立を受けて、この小さなバスク地方においてもラジカル民族主義者を中心に、スペイン政府に対して民族自決権を求める大規模な決起集会やデモが行われるようになった。
特に1959年以降30年以上も武装闘争を展開しているテロ組織「バスク祖国と自由(ETA)」による過激な分離・独立運動が激しさを増した。

ETAは、スペインのフランコ独裁政権による抑圧に反発し、1959年に結成された。
スペインやフランスによって分割支配されているバスク人居住地域を一つの独立国家として分離させることを目標としており、度重なるテロ活動を行ってきた。
1973年には、フランコ政府の首相カレロ・ブランコを暗殺した。そのため、バスクといえば、テロ集団であるETAのイメージが強くなった。ETAによるテロの犠牲者は毎年50人くらい、多いときには100人近くになることもあった。
テロは近年になっても続き、休戦協定を結んでいた1999年以外は毎年多くの犠牲者を出しつづけた。
しかし、2011年10月20日、ETAは、40年以上に及ぶ武装闘争の終結を宣言した。
スペイン政府は、民主主義の歴史的な勝利だと、宣言を歓迎し、そのニュースは世界中をめぐった。
この終結宣言は、バスク人にとっても喜ばしいことだ。バスクの多くの人たちは、独立心はいまでもあるが、無差別テロを繰り返すETAを、バスクの恥だと思っていたからだ。

日が暮れて私たちのバスは、バスクの経済的中心都市ビルバオへと到着した。
オキシデンタルビルバオホテルに入る前に夕食レストランに直行、食事後タクシー分乗でホテルに向かうことになった。
バス運転手の拘束時間の関係だ。
カフェイルーナにてラムの串焼き、鱈のピルピルという地元料理を食べる。
宿に入る前、翌日見学する予定のグッゲンハイム美術館の夜景を見に行くがライトアップは残念ながらしていなかった。


第5日 8月29日(水)

午前中はビルバオ見学、その後サンセバスチャンに移動する日程だ。
バスク州の中心的都市であるビルバオ。いまでも州人口の大半は、このビルバオに集中している。
かつて、ビルバオはとても裕福で先進的な都市だった。それは、19世紀にビルバオ周辺で豊かな鉄鉱石が発見されたためで、19世紀から20世紀半ばにかけて、ビルバオはバスクの「産業革命」の中心となった。
最初に訪れたのは世界遺産ビスカヤ橋。


ビスカヤ橋をバックに

ビルバオ郊外にあるポルトゥガレテとゲチョの町を結ぶ全長160メートルの鉄橋。
エッフェルの弟子として知られるビルバオ出身のエンジニア、アルベルト・デ・パラシオの設計により世界初の運搬橋として1893年に開通。
当時としては画期的な軽量鉄ケーブルを使った構造は世界各地の運搬橋のモデルとなる。橋は日本の鉄塔から延びるケーブルで支えられ船の運航を妨げないように橋げたは水面から45メートルの高さに設置されている。
そして橋げたから鉄のワイヤーでつりさげられたゴンドラが人や車を乗せて移動する仕組み。今も現役で活躍する。
ビルバオは鉄鋼業や造船業に加えて金融業も発達し、20世紀のはじめにはスペインでもっとも裕福な都市の一つとなった。
しかし、アメリカの成長や1970~80年代かけての経済危機もあって、こうした産業に陰りが見えはじめると、新たにサービス産業が発展した。
特に90年代後半からはじまった「クリエイティブ・シティ」観光戦略は大成功を収め、いまは、都市再生にもっとも成功した欧州の都市として、その再生手法は世界各地で「ビルバオ・モデル」と呼ばれている。
クリエイティブ・シティ(創造都市)とは「芸術や文化及びクリエイティブ・インダストリーとまちづくりの一体化を志向する新しい都市創造の概念」のことだ。
ヨーロッパでは1990年代から都市論や都市経済学などの分野で、こうしたクリエイティブ・シティの議論が盛んになってきた。

ビルバオでは、グッゲンハイム美術館誘致したことがきっかけでこのクリエイティブシティ」が実現した。
ニューヨークの奇抜な建物で知られるグッゲンハイム美術館がビルバオに建てられたのは97年。
かつて造船所のあった川岸にそびえる前衛的な建物はアメリカの建築家フランク・O・ゲーリーによるもの。光を反射して刻々と変化する外観はそれ自体が芸術作品と言える。


グッゲンハイム美術館

ビルバオの見学を終えて、私たちはバスでサンセバスチャンへと向かった。
途中、温暖な傾斜地にあるブドウ畑の中をバスが入って行き、地酒ワインのチヤコリの醸造元を訪問した。
道程が長いので小休止の意味もあったが、傾斜地のブドウ畑、そしてはるかに見渡す大西洋の眺めは素晴らしく、こういうところに来るのが普通の旅と違うと一行から称賛された。


地酒チヤコリのブドウ畑


チヤコリの試飲

今回の旅のハイライトはサン・セバスチャンだと私は考えてきた。
サン・セバスチャンは、その名のとおり聖セバスチャンがこの地に埋葬されたことに由来し、毎年1月20日の聖セバスチャンの祭日には「タンボラーダ」と呼ばれる祭りが行われ、街がもっとも賑わう。
これはコックや兵士の衣装を着た人々が太鼓をたたきながら、24時間ずっと街中を練り歩くというもので、ナポレオン戦争でフランスに占領されていたこの街のコックが、太鼓をたたいて行進するナポレオン軍を馬鹿にして真似をしたのが始まりとされている。
スペイン北部、大西洋(ビスケー湾)に面したこの街は、かつては高級保養地として知られ、多くの王族貴族たちで賑わった。国際映画祭や国際音楽祭も開催されることでも知られている。
このサン・セバスチャンはどうやって町おこしの成功するのか、それはグルメの町という戦略にあった。
現在この小さな街に、ミシュランの三ツ星レストランが3店、二つ星レストランが2店、一つ星レストランが4店もある。
人口一人あたりのミシュランの星の数は、ダントツの世界一で、しかも、世界の飲食業関係者の投票による英国「レストラン」誌「世界のベストレストラン50」のトツプ10に、この小さな街から2つのレストランが入った。


サンセバスチャンは人口18万人の保養地

これは決して偶然の事ではない。このサン・セバスチャンが、世界に誇る美食の街となったのは、わずかここ10年ほどの話だ。
主立った産業もなく、観光の目玉になるような世界遺産や美術館もないこの街は、集客の目玉として「美食」に焦点をあてたのである。
もともと海の幸も山の幸も豊富な場所ではあったが、そのような素材をただ使っただけの料理では、他の街と争うことはできない。
そこで90年代にはじまったのが「ヌエバ・コッシーナ」と呼ばれる食の運動だった。
「ヌエバ・コッシーナ」とは、直訳すれば「あたらしい食」である。
当時、この地の若いシェフたちは、いままでにはなかった、類を見ないあたらしい料理を作ろうと考えた。それは、徒弟制度で形成されていた既存の料理業界へのアンチテーゼからはじまった。
彼らは、レシピを口外しないフランス料理に代表される古典的システムとは対照的に、あたらしい技法やレシピをお互いに教えあい、また、伝統に囚われず、旅をして見つけてきた世界中の食材や調理方法を取り入れ、見たこともない料理を次々と作り上げることに成功した。
そして、お互い教えあいながら、さらにレシピを共有する「料理のオープンソース化」が幸いして、この地のレストランのレベルがいっせいに上がりはじめたのだ。
「教えることを惜しまない」という風土が多くのレストランそのものが学校の役割をしているとも言える。
街中に溢れるオープンな姿勢、良い教育が幸いして、この地の料理のレベルは、全体的に高くなった。なかでも皆で教えあうことで、一気に料理の質があがったのが、バルで出される小さな料理ピンチョスである。
当初はバゲットパンを土台にして玉子焼きや、肉や、魚類を載せて落ちないように楊枝で刺したつまみを一般的にピンチョスと呼んでいたのが、楊枝が使われていないものや小皿料理まで最近はピンチョスと総称するようになっている。
代表的なピンチョスは、「ヒルダ」と呼ばれるオリーブとアンチョビや酢漬けの青唐辛子が一緒に楊枝に刺さったものだ。
ピンチョスは日本で言えば鮨にたとえることができるかもしれない。鮨はかつて高級料理ではなく、ちょっとしたおつまみのような小皿料理であった。


BARにピンチョスが並ぶ


ピンチョス

スペイン名物のパエリアやリゾットも、すべてミニチュアサイズにして出すアイデアを街中で「シェア」し、いまやミニチュア料理は、この街の名物になった。
こんな料理がある街は、世界広しと言えど、サン・セバスチャンだけ。このようなあたらしい料理を目指して、わずか人口18万人のサン・セバスチャンには、今日も世界中から観光客が集まる。

製造業だけでは世界に勝てなくなった日本は、今後早急に「観光先進国」としてやっていく必要がある。
日本にも豊かな食材がある地域はたくさんある。
日本の小さな地方都市が、世界から観光客を呼び寄せる可能性のヒントは、どうやらこのサン・セバスチャンにありそうだ。
私たちは遅めのランチに、「PORTALETAS」というレストランでピンチョスをまとめて食べた。
また夜はミシュラン星のレストラン「KOKOTXA」で 緑豆の前菜 アンチョビー、鱈のココチャ風、ガスパッチョ、去勢牛ローストなどのコースを食べた。


星のレストランがズラリ


満足の料理


第6日 8月30日(木)

前日夕方雨に見舞われ、ビスケー湾の眺めを見るのは翌朝に持ち越した。
小高い丘から見下ろすリゾート地の景色は素晴らしかった。見学後 バンプローナへと向かう。


ビスケー湾を臨む

ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」で描かれたこの街は毎年7月に行われる牛追い祭りで知られる。祭りが始まるのは市庁舎前。ここから狭い石畳の道を牛の群れが突進する。


バンプローナ市庁舎


この狭い道を牛たちは走る


町のいたるところで牛追いを紹介


ヘミングウェイと

街の中心カステリーリョ広場にある「カフェイルーナ」でランチ。
その後鉄道でバルセロナを目指す。
特急で4時間の行程だが、海外での鉄道旅行を楽しみにしている人が多く好評だった。


一路バルセロナへ


第7日 8月31日(金)

本日は一日バルセロナ観光。
ガウディのグエル公園、サグラダ・ファミリア、カーサ・ミラ、オリンピック公園のあとランチはパエリア、午後はランブランス通りなど周遊、そして夜はフラメンコである。
実業家グエルはバルセロナ市街を見下ろす山の手に60戸の宅地を造成したが資金面などの問題から途中で断念した。
その後公園として観光地となる。
正門右側が守衛小屋、左側が管理小屋。童話「ヘンゼルとグレーテル」に出てくるお菓子の家をイメージしたと言われる。また正面の大階段の途中には有名なトカゲの噴水がある。
「ギリシャ劇場」と名付けられた中央広場には機能性と芸術性を兼ね備えた波形のベンチがある。


グエル公園

サグラダ・ファミリア聖堂は、サン・ホセ帰依者協会の本堂として1882年に着工、翌年ガウディ引き継がれ晩年を敬虔なキリスト教徒として生きたガウディはこの教会の建設に後半生を費やした。
ガウディ没後100年の2026年を目指して工事が進む。


サグラダファミリア


サグラダファミリアの内部

3つあるファザードのうち唯一ガウディ自らが指揮を執って1930年に完成したのが「生誕のファザード」太陽が昇る東側に面しておりイエスキリストの生誕と幼少期の出来事が刻まれている。
聖堂内部は樹木のように枝分かれした柱が特徴的、ガウディは信者が神と一体化できる森のような空間を想定した。また丸天井には殉教のシンボルであるシュロの葉がモチーフとして使われている。
カサ・ミラは石を積み上げたような独特の形状で直線を使わずゆがんだ曲線で山をテーマにデザインしている。
その後バスでモンジェイックの丘へ。
ここは1992年バルセロナオリンピックのメイン会場となったところだ。
マラソン女子で有森裕子がゴールした競技場をみんな自分の目で確認した。


カサ・ミラ


オリンピックスタジアム

ランチは再び町なかへ。
小川さんお薦めの店でパエリアを楽しむ。
「カーサ・ダリオ」という地元でも有名な店で各種前菜の後、特大のパエリアが登場、みんなでシェアした。


本場パエリアに舌つづみ

午後は自由行動。
ランブランス通りなどを歩きながらバルセロナを肌で体感した。
バルセロナはカタルーニャ地方の中心都市だ。イスラム教徒がイベリア半島の大半を支配していた9世紀、カタルーニャはフランク国王の版図に組み入れられ、986年にはバルセロナ伯国として独立を宣言。これが現在のカタルーニャの起源とされる。
中世ヨーロッパの影響を受けながら、またイスラムの進んだ文化を取り入れたカタルーニャは、勢力を地中海に拡大し、約4世紀にわたる黄金時代を迎えた。
しかしその後のスペイン統一により衰退、1714年にはスペイン継承戦争の北を機に自治権を失ってしまう。再び発展が始まったのは19世紀半ばのこと。
カタルーニャ・ルネッサンスと呼ばれるこの時代、モデルニスモという芸術運動が起こり、ガウディをはじめとする建築家たちの作品が街並みに彩りを添えた。
フランコ死後の1977年に念願の自治権を獲得したカタルーニャは、フラン時代に禁止されていたカタルーニャ語を公用語として復活させた。
今では街なかにカタルーニャ語の標識が掲げられ、カタルーニャ語で会話を楽しむ人々の姿が見られる。
昔から自由で新しい文化を取り入れ、数多くの芸術家たちを生み出したバルセロナは、21世紀に入りいっそう、スペインで最も活気のある都市として躍進を続けている。

プラタナスの並木が美しいランブランス通りは旧市街の目抜き通りである。カタルーニャ広場からコロンブスの塔までを結んでいる。
中央あたりにサン・ジュセップ市場がある。肉や野菜を売る店から、立ち食いの店までぎっしりと軒を連ねている。


バルセロナの中心ランブランス通り

夕方からはこの界隈にあるコルドベス劇場でフラメンコのショーを鑑賞した。本場のフラメンコは迫力満点で、靴で床を叩く軽やかなステップの音に魅了された。


本場のフラメンコを堪能


第8日 9月1日(土)

最終日は深夜の飛行機の出発までたっぷりとバルセロナの町を楽しむことができる自由時間だった。
午前は雨模様だったが昼頃から天気も回復、みなそれぞれのバルセロナの最後の時間を楽しんだ。
私たちのグループはランブランス通りから少し入ったところにあるレイアール広場へ。ガウディの若いころの作品であるガス灯が立ち、周囲にはバルやレストランが建ち並んでいる。


レイアール広場

ランチはサン・ジュセップ市場のファストフードで簡単に済ませ、ゴシック地区へ向かう。ここはローマ時代に起源をもつ中心地区でカテドラル(大聖堂)がそびえている。
13世紀から建設が始まり、完成までに150年を要したという大聖堂はその後もたびたび手を加えられ現在の形になったのは20世紀になったからだという。
正面の中央祭壇の地下にはバルセロナの守護聖女サンタ・エウラリアが眠る。
夕方には予約してあったピカソ美術館で別行動だったメンバーとも集合。
ここには9歳の時から主に「青の時代」までの初期の作品が展示されている。
美術館を出た後、サンタ・マリア・ダル・マル教会へ。
ここはバルセロナが地中海貿易で栄華を誇った14世紀にジャウマ1世によって建立されたカタルーニャ・ゴシック様式の教会。海の聖母マリアに航海の安全を祈ったという。


いつも賑わうサンジョセップ市場

ヨットハーバーを見ながら海岸を散歩し最後の見学地、バルセロナのシンボルコロンブスの塔に上った。高さ60メートル、1888年のバルセロナ万博の際にカタルーニャとアメリカの交易を記念して建てられた。
見晴らしは良いのだが、エレベータも狭く展望台は人がすれ違うのも大変なほど狭かった。150年前の塔、と納得する。
バルセロナ空港を成田行き直行チャーター便が飛び立ったのは午前零時を回っていた。
移動距離の長い大変なツアーではあったが、イベリア半島の歴史と今を駆け足で巡り、大いに知識見聞を広めることができた。


バルセロナのシンボルコロンブスの像

まとめ

日本は工業国家として明治維新後先進国に駆けあがった。
しかし発展途上国の追い上げと先端技術の拡散、更には国内市場の高齢化人口急減による縮小も考えるとこれまでにないビジネスモデルを構築するしか未来図は描けない。
2020年のオリンピックを日本新戦略の起点として考えるべきだ。
政府は2020年の観光客数を4000万人と見込む。
人口1億2000万人の3分の1だ。
世界一の観光大国フランスは人口8000万人で観光客8000万人。スペインは人口およそ 4000万人に対して近年急激に増加 8000万人とフランスとほぼ並ぶくらいに外国人観光客を迎えるようになっている。
他の産業が乏しいスペインの観光産業が占める割合は日本の50倍である。
日本は四季があり、文化伝統にオリジナリティがあることから観光の潜在力は多いに期待できる。
そして世界は今第二次世界旅行ブームだ。
ジャンボジェットの就航によるパック旅行登場が第一次ならば、いまはLCCの就航により、経済発展目覚ましい国々からの新規海外旅客が誘引できる。そしてその潜在マーケットは日本に近いアジアの国々ではないか。
戦争でも起こらない限りオリンピックの年の海外観光客数はその後も増え続け、将来は人口に匹敵する人数が大挙押し寄せてくるだろう。
ホテルやテーマパークといった狭義の観光産業への恩恵と捉えるべきではない。
彼らは日本に来て日本人の暮らしを見聞し、それを本国に帰ったからもひろめるだろう。
もともとは日本人のために作った日本オリジナル商品の輸出のチャンスが広がる。
和食懐石料理、うどん屋、お好み焼き屋、せんべいに饅頭、日本酒にダシに醤油、みそといった食にまつわるビジネスは一気に海外進出のチャンスが広まるだろう。
温水洗浄便座に、軽自動車。マッサージチェアに畳に寝ゴザ、伝統工芸家具や茶わんなどの陶磁器まですそ野は広い。
また温泉文化や合掌つくりの民宿なども人気だ。
第二次旅行ブームが始まったころは銀座など都心での爆買いが話題になった。
これはかつて日本人が初めて海外に出かけたころを考えればよく理解できる。
最初は団体の「旗振りツアー」で出かけ、シャンゼリゼや五番街やオックスフォーフォドストリートで「バスが来るまで1時間買い物タイム」で慌ててブランド品を買い込んだものだ。
「初めての海外旅行楽しかったな、でも今度来るときはフリータイムの多いツアーにして自由に買い物や見学を楽しみたい」と思わなかったか。
今後日本ではこういう外国人観光が増えてゆく。
東京や京都だけではなく、日本の隅々の自然や風土を楽しもうとする人たちが増えればどれだけ地域再生に役立つだろう。交通不便な所でもクルーズ船が入港してくれれば大きな消費を産むはずだ。
実際函館や長崎、境港や小樽、下田といった港町は外国人クルーズ客の人気立ち寄り港になっている。

ポルトガルやスペインはいわば「老大国の先進国」だ。
工業生産は必ずしも得意ではないが、郷土料理やワインで魅力を発信し、そして世界遺産が最大の観光資源である。
かつて発展したレガシーを売り物に全世界から観光客を集めている。
工業が廃れた後グッゲンハイム美術館を核に再生を図ったビルバオ一次産品の生産地にミシュランレストランというブランド付加価値で魅力ある街を作ったサンセバスチャン。
そこで供されるピンチョス料理は少しでもたくさん多くのモノを食してもらおうという日本の寿司に近いものがある。
あるいは宇都宮の多くの餃子店を食べ歩いてもらおうという「一皿ミニ餃子」とも近い。

何もなくても知恵がある。
何もしなければ不況だ。
誰かが何かを始めなければ何も始まらない。
今回のツアーがそんな やる気を引き起こすきっかけになればこれほど嬉しいことはない。


バルセロナ発 帰国便 機中にて