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第44回 7月 御茶ノ水界隈、令和初詣

令和元年の正月、正確にはそれは存在しないはずだった。
5月1日に新天皇が即位して元年は7か月間しかない。
しかし、そんな理屈とは裏腹に、4月30日は「平成大晦日」と位置付けられカウントダウンがあり、5月1日を期して「あけおめメール」が飛び交い、天皇即位を「おめでとう」と国民は表現した。
こんなことは平成の改元のときにはなかった。
テレビでは朝から初日の出まで中継していた。
そして各地の神社仏閣には初詣客が訪れた。
三日前に平成の最後の記念として訪れた明治神宮では御朱印に3時間待ちの行列ができていたが、ついにこの日は10時間待ちと報じられた。
普通の初詣でもこんな行列はないのに・・・。

私がこの日訪れたのは神田明神である。
ここも毎年正月仕事始めには商売繁盛を祈願する人たちで大行列ができるから覚悟を決めての参拝だった。


神田明神は初詣状態

ところが、確かに参拝客で本殿前には長い行列ができていたのだが、お目当ての御朱印受付所の前はそれほど行列ができていない。
やや拍子抜けだったが、理由はすぐにわかった。
当然混雑が予想されていたので、参拝客が持参する御朱印帳にその場で記入する方法を止めて、あらかじめ用意された紙に御朱印を押し、「令和元年五月」と記入してそれを渡すだけにしていたのだった。


手際よくいただいた御朱印

神田明神は江戸時代以来将軍がご覧になる神田祭を行う神社として知られる。
東京の下町108町会の総氏神だ。
神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。
平将門の首が京から持ち去られて近くに葬られ、以後将門の首塚として関東の平氏武将の崇敬を受けた。
疫病が流行したおり将門の祟りであるとして供養が行われ神田神社に祀られた。

2018年12月15日には700人収容の多目的ホール「神田明神ホール」や物販、飲食スペースなどを備えた文化交流館「EDOCCO(エドッコ)」が境内に開館した。
ちょうどこの時期「鈴木敏夫とジブリ展」が開催中で、こちらへの入場を希望する若者の行列が重なり境内は大変な人出だった。


境内はジブリ目当ての行列も

それにしても境内の施設でジブリ展である。
日本の神社仏閣は初詣にしてもたくさんの若者を集める仕掛け作りに 長けていることを改めて感じる。
この神社がすごいのは「銭形平次の碑」まであることだ。
ちなみに銭形平次は架空の人物だ。
野村胡堂の代表作「銭形平次 捕物控」の主人公・銭形平次が神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定だったことから碑を設置したという。
寺社が時代を超えて民衆の支持を集めるうらには民意を取り込むマーケティングセンスがあると思う。

神田明神を出て隣接する湯島聖堂に立ち寄る。
正門ではなく神田明神側から入る通用門がある。


湯島聖堂大成殿

湯島聖堂は江戸時代の元禄3年に徳川綱吉によって建てられた孔子廟のことで、後に幕府直轄の学問所となり多くの人材が集まった。
明治維新後は幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へつながってゆく。
またこの地に設立された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学) の源流ともなった。

1872年大成殿で日本最初の博覧会が開催された。
これが後の東京国立博物館設立へのきっかけとなった。
関東大震災でほとんどの建物が焼失し現在の大成殿は伊東忠太が設計し鉄筋コンクリート製で再建された。

湯島聖堂には世界最大の孔子像がある。
台北ライオンズクラブから寄贈されたものだ。
大成殿の大きな屋根や鳳凰などの装飾は日本の寺とは異なる独特の風格を感じさせる。
神田明神と比べれば人も少なくひっそりと静かな湯島聖堂は、散策しながらしばし俗世を忘れる格好の場所である。
湯島聖堂を出て聖橋を渡る。

JR御茶ノ水駅の改修工事が行われている。
神田川沿いに作られた駅舎は敷地が狭くバリアフリーなどの施設整備が難しかった。
高低差もあり大型の重機を設置する場所もない。
そこで川に足場を作ってもっぱら終電後の夜中に工事を行うという苦心の作業が続いている。
工事も完成に近づき徐々に新しい動線が見え始めている。


お茶の水駅は大工事中

駅界隈を抜けて明治大学方面に向かう。
この辺りは日本最大の楽器店の集積場所で隣からとなりへとギターなどを扱う店が集まっている。
およそ40店がひしめくこの楽器の街の成り立ちは戦前にさかのぼる。
近隣に大学が多いことから学生サークルなどの楽器の需要が多かったことが理由のようだ。
ネット購入全盛の時代に合っても楽器は音を確認してから買うという人が多いだけにリアル店舗の重要性は今も変わらないようだ。


この辺りは楽器店の集積場

ところで突然だが、御茶ノ水という地名の由来はご存じだろうか。
江戸時代慶長年間に神田山に高林寺という寺があった。
寺の庭から良い水が湧き出るので二代将軍秀忠公に差し上げたところお茶がおいしかったとほめられた。
それから毎日この水をさしあげるようになり「お茶の水高林寺」と呼ばれるようになり、地名となった。
この湧き水の名残を感じられるものが、御茶ノ水駅近くの交番の裏にある。
岩から水が湧き出ているようなエンブレムがあることを知っている人は意外に少ないかもしれない。


御茶ノ水由来の碑が残る

お茶の水橋からしばし大きな谷になっている神田川を見る。
江戸時代大規模な江戸改修工事が行われた。
家康の時代に平川の河口を付け替え江戸前島を横断する形に流れを変えた。
現在の日本橋川の流路にあたる。
しかしこの平川下流部では、度々洪水による深刻な被害が出ていた。
そのため幕府は洪水から江戸城や下流部の町々を守るため、当時江戸湾に南に流れ込んでいた平川、小石川、旧石神井川の流れを東に直角に曲げ、隅田川に流すように変える大工事を行った。
平川を隅田川に流すためには、途中本郷台地を通過する必要がありこの天下普請といわれる大規模公共事業の結果開堀されたのが今の神田川になった。
御茶ノ水駅周辺は神田川に面して旧な崖になっているが、これはこの工事で作られた掘割の名残だ。

つまりお茶の水名物の巨大なV字谷は人工的に造られたものということになる。
実は治水に加えてこのV字谷の掘削には江戸城を守る堀作りの意味があった。
江戸城を背にこのお茶の水から北側には本郷台という高台が広がっていた。
そこには加賀前田藩の藩邸があった。
現在の東京大学のあたりだ。


人工的に作られたV字谷

加賀100万石大老の前田藩は豊臣の時代が終わって徳川の時代になってもいわば仮想敵国として徳川は謀反を警戒していたと言われる。
前田藩も徳川からそう思われていることは承知で、反旗を翻すことはないと戦備拡大ではなく文化を奨励する施策をとっていた。
かりに万が一前田藩が謀反を起こし、藩邸から馬を駆って本郷台を駆け下りてくれば江戸城はひとたまりもないだろう。
そこで神田川を掘削して守りを固める必要があったというわけだ。
また神田川の内側には徳川の親衛隊である直参旗本の駿河出身者を住まわせて有事に備えさせた。
神田駿河台の地名はそれによる。
今私がたたずむ御茶ノ水界隈はそんな歴史の交差点でもあった。

さて小休止を終えて、明治大学へと向かう。
連休中になぜ明治大学を訪ねるかといえばここの博物館は一般に開放され本日も開館していることを確認していた。
この博物館は本館地下にあり、見学料無料である。
「商品博物館」(商学部)、「刑事博物館」(法学部)、「考古学博物館」(文学部)の3つの博物館を統合したものとして、2004年にアカデミーコモンのオープンに合わせて開館した。
中でも他では見られないものが「刑事博物館」だ。
法学部が法律に関する古文書、国内外の歴史的な刑事関係の貴重な資料を収集・保管したことに由来するが、特に興味深いのは刑罰や拷問に用いられた道具の展示だ。
罪人への体罰や拷問の道具、ギロチン台などユニークな展示に興味がそそられる。


明治大学駿河台キャンパス

この博物館と同じフロアに隣接するのが「阿久悠記念館」だ。
以前から記念館の存在は聞いていたが初めて来た。

明治大学出身の阿久悠さんは、日本を代表する作詞家としてだれもが知る多数の歌謡曲の作詞を手がけた。
都はるみの『北の宿から』、沢田研二の『勝手にしやがれ』、ピンク・レディーの『UFO』などの大ヒット曲をはじめ、アニメソングやCM曲まで幅広いジャンルでヒット曲を数々世に送り出した。
懐かしい曲を聴くことができ、貴重な阿久悠人生を振り返る資料が展示されている。
ワンフロアでそれほど広いスペースではないが、令和の最初の日に昭和を偲ぶには格好の場所だった。


阿久悠記念館は楽しい

明治大学の建物を出て駿河台下方向へ。
休日は通行人も少なく閑散としている。
そんな日でもほとんどの古書店は営業していた。
こんな日は時計を気にせず古本屋街を歩くには都合がいい。
昔と比べて古書街を回る人は減ったように思う。
特に若い人が減った気がする。
活字離れもあるだろうし、どうしても研究などで必要な本も歩きながら探すよりはネット検索のほうが今日的だろう。
これだけの古書店が令和の時代に神田界隈という集積の場で生き残ってゆくことの難しさを感じる。

ランチにカレーを食べる。
神田界隈はカレーなどを出す洋食店が多い。
学生など食事にお金と時間をかけず、書籍や楽器、スポーツ用品を買い求めるための来街者が多いからだろうか。
最近はネットへの対抗か、くつろぎを重視した店作りの書店がこの界隈にも増えて、カレーや珈琲を出すコーナーを併設するところも出てきた。

午後になるのを待ってお茶の水駅方向へ戻る。
ニコライ堂に向かうためだ。
内部の見学は午後からということで、今日最後の見学にニコライ堂を入れた。

ニコライ堂は正式名称は「東京復活大聖堂」という。
ドーム屋根の高さは35メートル日本で最初にできたビザンティン様式の教会だ。
藤山一郎歌う「東京ラプソディ」にも出てくるようにかつては東京の代表的な名所であったが、いまは周囲の高層ビルの谷間であまり目立たなくなった。
1891年完成だが、関東大震災で大きな被害を受けてその後修復された。
日本ハリストス正教会の中心として聖ニコライの依頼を受けたミハイル・シチュールポフ(Michael A. Shchurupov)が原設計を行いジョサイア・コンドルが実施設計を担当した。


ニコライ堂

内部に入る。
すでに30人ほどの見学者が中にいた。 中といってもほんの入口までしか一般見学はできない。
全体に質素な造りではあるが荘厳な礼拝の場の雰囲気を感じることができた。

令和元年正月にあたる5月1日。行楽地は連休で大混雑だったようだが、都心を歩きながら歴史をたどる街あるきは、なかなかに楽しいアイデアであった。