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西村晃の路地を曲がれば、もう旅人

第45回 6~7月 東北ドライブ旅行

★6月25日 火
3月に心臓バイパス手術を受けた。
体調が悪くなったのが昨年秋だったからしばらく遠出ドライブは控えていた。
ようやく体調も回復、何よりどこか行こうという気になって東北への旅行を計画した。
福島と秋田に用事があり、あえて新幹線ではなくマイカーを使って、用事の後十和田奥入瀬から下北半島、そして三陸海岸から常磐道と、東日本大震災の被災地を回ってこようという計画である。
行程は一週間、病後の回復を見るうえでも試金石だと思う。

3時に起床、4時20分に出発。
道はガラガラだ。
混雑もなく一時間ほどで環八の井荻で、仕事に同行するM氏を拾う。
練馬から外環に入り東北自動車道まで渋滞はなかった。
もっともラジオの交通情報によると我々の通過後事故渋滞が起きたようだ。
早起きはどれだけ得するかわからない。
上河内SA、安達太良SAで休憩したが予定よりだいぶ早く、9時半過ぎに福島市郊外の果樹園へ。
ちょうどサクランボ出荷の最盛期で忙しそうだった。
ここで少し商談。


福島の果物農家 片平新一さん


この時期サクランボの出荷に追われていた

その後国道4号沿いにある「道の駅 国見 あつかしの郷」に向かう。
ここでの商談の前に早めのランチをここのレストランでとる。
ランチメニューの地採れ野菜のサラダとパンのセットはサラダがすごいボリュームだった。
商談後、帰京するM氏をいったん福島駅まで送り、ここからいよいよ一人旅が始まった。


「道の駅 国見 あつかしの郷」に

飯坂インターから東北道に入る。
夏休み前は道路の補修作業があちこちで行われていて車線規制があるが、それ以外は順調だ。
宮城県の長者原SAで休憩。
早めの夕食を食べておかないと、これから先は大きなSAがない。
レストランに入り仙台名物の牛タン定食を食べる。

その後東北道から秋田道へ入り、岩手県の錦秋湖SAでトイレ休憩をしたが、SAと言いながら食事をするところはなかったし、売店も20時で閉鎖と表示されていた。
東名などとは交通量が違うのだから商売は難しいのだろう。

19時45分 秋田市の中心部にある「ルートイングランティア」に到着。
ルートイングループは高速道のインター近くに立地しており駐車場は原則無料でドライバーにとってはありがたい存在。
ただ「グランティア」というブランドは過去に別経営だったホテルを買収した物件で、少しコンセプトが異なるようだ。
秋田の場合はホテルというよりも地元顧客向けの温浴施設だった物件だったようで、宿泊者以外の外来の温泉入浴者も多い。
街なかにありながら駐車場無料はありがたい。
露天風呂も含めて多種の風呂がある入浴施設も利用でき、朝食バイキングもセットされている。
休憩コーナーに漫画図書館まであり、2泊した私はコミック本を3冊読破した。


★6月26日 水
早朝、秋田市中心部、川反(かわばた)付近を散策する。
夜は人の往来が多い歓楽街も朝5時はひっそりしている。
旭川の文字通り川端という地名由来がある。
武家屋敷から見て川の反対にできた遊郭の街で、川反という字になったという説がある。
いまは大町という地名で、川反は地名ではない。

散歩後ホテルで朝食、午前中は散歩中に下見しておいた「秋田赤れんが館」を見学する。
川反繁華街の一角にある「赤れんが館」はもともと秋田銀行本店の建物を保存し、現在は博物館として開放している。
明治45年に完成したれんが造り、2階建ての外観はルネサンス様式、内部はバロックの手法、応接室は寄木細工、階段は大理石で豪華さを感じる。
午後は仕事、あすからのドライブに備え早めに就寝。


★6月27日 木 曇り
朝 散歩 秋田市民市場などまで足を延ばす。
秋田は関ケ原の戦い以降佐竹家が治めた。
歴代藩士湯は文教事業に取り組み3代義処による藩史編集局「秋田史館」創設、8代義敦による「秋田蘭画」創設、9代義和による藩校「明徳館」設立などの業績で知られる。
高齢化が進み将来が危ぶまれているのは地方都市共通の問題だが、秋田県は深刻にそれを受け止めている。
市場の内外を見たが、閉鎖している店舗も多くまた集まっている人も高齢者が中心、扱っている生鮮品の量自体が少ないように見受けられた。

ホテルに戻り食事後9時に出発。
小坂まで高速に乗っても2時間以上かかる
八郎潟SAはSAとは名ばかりのトイレのみの施設。
人口過疎地では交通量が少なくやはり物販は難しそうだ。
「道の駅 大太鼓の里」で休憩と買い物。
いぶりがっこなど秋田土産を買う。

11時20分、「小坂鉱山事務所」に到着した。
えっ、と驚くほどの立派な造りだ。
小坂鉱山は江戸時代後期に発見され、明治時代に多くの有用金属を含む黒鉱の精錬に成功する。
小坂町は空前の好景気に沸き、水力発電により秋田県初の電灯が灯り、電話、上下水道、病院、鉄道などの社会資本も鉱山を運営する藤田組(現DOWAホールディングス)が自前で整備した。
「小坂鉱山事務所」は明治38年(1905年)に当時の金額で170万円、現在の約70億円に相当する巨費を投じて建設された。
平成9年(1997年)まで、およそ一世紀もの間事務所として使われてきた、鉱山の町小坂のシンボルともいえる建物である。
館内は博物館仕立てになっており、近代建築として価値ある小坂鉱山事務所の特徴や移築復原の記録、小坂町の歴史などが紹介されている。


小坂鉱山事務所

館内のレストラン「あかしあ亭」で名物「桃豚」の生姜焼き定食を食べた。
やわらかい肉は癖がなくおいしかった。

食後、隣接する「康楽館」へ。
鉱山労働者や家族のために作られた娯楽施設の芝居小屋で、今も現役で公演がおこなわれている。
見学に入場したときはリハーサル中であった。

明治43年に落成、外観正面は白く華麗な下見板張り、上げ下げ式窓と鋸歯状の軒飾りが規則正しく並び、内部の天井には八角形の枠組みの中央にチューリップ型の電灯が輝く洋風建築だ。
芝居小屋の多くは和風造りが多い中で外見はあまり芝居小屋らしくない。
建物が面する美しい大通り「明治100年通り」には出し物にあった芝居のぼりが数多く翻り、観劇気分を盛り上げている。
案内の人がついて見学ツアーをしてくれる。

客席は平土間と桟敷席からなり消防法のない時代には1000人もの人を収容したという。
歌舞伎の上演もできるように舞台に向かって左右に花道、役者をせり上げる切穴(すっぽん)、回り舞台といった設備もありいまでも人力で動かしている。
杮落しは1910年(明治43年)8月、大阪歌舞伎の尾上松鶴一座のよる公演だった。
その後も歌舞伎や新劇、映画、寄席、津軽三味線など様々な娯楽が催され大盛況で、観客動員は近隣だけでなく東北全域に及んだ。
しかし小坂鉱山の衰退とテレビの普及、そして建物の老朽化で1970年に一般興行の中止を余儀なくされた。
一時は解体の危機が迫ったが、存続運動の中心に俳優の小沢昭一氏がいた。

1985年(昭和60年)所有者であった同和鉱業から小坂町へ修復費用5000万円を添えて譲渡が成立した。
復元作業の結果、翌年「康楽館」は復活を遂げた。
以後冬期を除くほぼ毎日、一日2~3回の公演を組んでいつ行っても観られる芝居小屋を目指してきた。

創建77年目を迎えた1987年(昭和62年)7月には第十二代市川團十郎一行による歌舞伎公演が実現、康楽館の名は全国に知られるようになった。
以来毎年7月には人気役者が出演する「松竹大歌舞伎」を上演している。

見学ツアーで地下に降りると、リハーサルで切穴(すっぽん)からせりあがる役者に出会った。
観客から見ると花道の途中の穴から役者の首が出てくるのがスッポンのように見えることからこの名前が付いたのだそうだが、それを下から見学する機会はあまりない。
二人の男性が人力で役者の乗った板をロープで引き上げるが、二人が気があっていないと板が傾いて役者がひっくり返ってしまう。
小さく掛け声をかけて無事役者の姿が舞台上へと消えていった。
ほかにも人力で回す回り舞台など、舞台裏の仕掛けを楽しみながら見せてもらった。


康楽館

康楽館から車で数分の「小坂鉄道レールパーク」へ
ここは旧小坂鉄道の線路と設備を利用して 、《観て・学んで・体験できる》レール遊びの複合施設として整備された。
旧小坂駅の駅舎がそのまま受付事務所として使われ、小坂鉄道時代の蒸気機関車や機関車の展示、またレールバイクの乗車体験やディーゼル機関車の体験運転などができる。
また本物の寝台特急「あけぼの」をホテルとして営業しており、マニアの人気を集めている。

小坂鉄道は明治41年、鉱山貨物の輸送を中心に小坂、大舘間22,3キロは開通した。
平成21年まで100年にわたって鉱山を支えてきた鉄道だ。
レール遊びのテーマパークとして子供たちにかつてここに鉄道があったことを知ってもらうことは意義深いと思う。

13時に「小坂レールパーク」を出発、一路十和田湖をめざす。
新緑が小雨に映えて美しい。
対向車もなく、私だけに用意されたような快適な山道を軽快に走る。

13時30分 発荷峠展望台。
ここから十和田湖が見渡せる。
天気は小雨だが、ちゃんと湖を確認できた。

発荷峠展望台は十和田湖の南岸、標高631mに位置する円形の展望台。
十和田湖は大きく二つのふくらみがあるが、そのうち西湖が見える。
右側には変化に富んだ入り江が美しい中山半島、その向こうにお椀を伏せたような形の御倉山が見え、正面には十和田カルデラの外輪山の連なり、そして晴れていれば後方には八甲田連峰までが眺望できるところだ。

十和田湖は青森・秋田の両県にまたがっている。
クルマは湖のほとりに出てそのまま子ノ口へ。
ここから焼山までの約14kmの流れを奥入瀬渓流と呼び十和田八幡平国立公園を代表する景勝地の一つとして知られる。
道路と渓流が並行しており、水量調節によって適量の水が流されて美しさを保っている。
今日は交通量も少なく徐行で走る。
道路に並行してハイキング路も整備されているし、ところどころ駐車スペースもあって観光の利便性もいい。
車を走らせながらところどころ駐車をして写真を撮る。


十和田湖

14時30分 石ケ戸。「いしげど」と読む。
その昔美しい鬼女が地名の由来となった大きな岩に隠れて旅人を襲ったと伝えられている奥入瀬渓流の観光スポットだ。
傘を差しながらしばらく散策する。
せせらぎの音が何といっても清らかだ。
カメラを動画にして音も収める。
目にも耳にも優しい新緑の渓流の魅力に一気に引き付けられる。
あす、この渓流街道を車で走破するので本日は途中で引き返す。


奥入瀬渓流

15時30分
湖畔の駐車場にクルマを停め、歩いて乙女の像に至る道を行く。
増の手前を分岐すると「十和田神社」の参道だ。
杉木立と、竜神をかたどった手水舎が見え、十和田神社の入口へと至る。
十和田神社は重厚な本殿、拝殿は荘厳さを感じる佇まいで、祭神として日本武尊が祀られる。
明治の神仏分離までは東北地方に色濃く残る水神信仰の象徴であった。
十和田山青龍大権現が祀られており現在も奥の院に祀られている。
参拝のあと十和田湖のシンボルともいえる「乙女の像」へ。

昭和28年、十和田湖国立公園指定15周年を記念して建てられたこのブロンズ像は高村光太郎の最後の作品だ。
高さ2.1mの2人の裸婦が左手を会わせ向かい合っており、モデルは光太郎の愛妻智恵子夫人といわれる。
台座には婦人の故郷、福島産の黒御影石が使われている。

クルマに戻り、およそ20分ほどで湖畔のホテルにチェックインした。
悪天候の割には充実した一日だった。


★6月28日 金
5時に起床、温泉に入る。
雨は降ってはいるが、今日はこの後止む見込み。
朝食では青森名物リンゴカレーを食べる。

8時20分に出発、湖畔の遊覧船乗り場をぶらつくが今日は乗っている時間はない。
子ノ口から奥入瀬街道に入り十和田市をめざす。
新緑が目に染む道路を1時間ほど走り十和田市立美術館着。

十和田市美術館は2008年に開館、開館当初の来館想定は年間4万5千人だったが、初年度は17万人、その後も年間13万人から18万人をコンスタントに集めている。
人気の秘密はオノ・ヨーコら著名作家の作品をそろえた常設展示だけではない。
企画展に呼ばれたアーティストたちが館内に閉じこもらず発表の場を求めて積極的に街に出てゆく。
また美術館だけでなく近隣の公園や歩道などにもアート作品が散りばめられ、近年はアートの街として十和田市は全国に知られるようになった。
しかし、誰もが認める巨匠のアート作品とは違い現代作家の前衛芸術は万人の評価を得られるかは難しい。
人口減少で財政難の地方自治体がここまで現代芸術に予算をつぎ込むまでには異論もあったと思う。
よくここまでやってきたなという驚きとともに今後どう維持発展させてゆくか、市長はじめ人もやがて変わってゆく中でかじ取りが注目される。
2時間余りの十和田市滞在を終え、下北半島へ。


十和田市現代美術館

「道の駅 絵馬の街七戸」で昼食休憩。
天ぷらそばとそば串もち(じゃねタレ)を食べる。
土産売り場も充実した大きな道の駅だった。
野辺地からJR大湊線に沿うように国道279号線(はまなすライン)を北上する。
左にむつ湾を望みながら原生林の中の道路を走る。

およそ1時間半で恐山に到着した。
名前が名前だけに子供のころから一度行ってみたい、と思いながら果たせないできた。
こんな場所だから仕事のついでというわけにもいかなかった。
だいたい公共交通機関で行こうと思ってもバスの本数も少なく、アクセスが難しい。
今回マイカーでようやく実現した。


恐山

霊場恐山は日本三大霊山の一つに数えられ、立ちこめる硫黄臭と荒涼とした風景で、この世とは思えないおどろおどろしさが漂う。
岩場地帯を抜けると、風景は一変する。
宇曽利湖畔のその場所は 極楽浜 と呼ばれ その鮮烈な美しさがかえって不気味さを感じさせる。
恐山は、死者の御霊を呼び口寄せを行なうイタコ(いたこ)がいる霊場として有名だが、実際にここに居るのは主に恐山大祭と秋詣りの期間だけだ。

862年、慈覚大師円仁は
「東へ向かうこと三十余日、霊山あり。その地に仏道をひろめよ」
との夢のお告げに従い諸国を行脚、辿り着いたのがこの地であると言われている。

三途の川を渡り、駐車場に車を止め入山料500円を払い門をくぐる。
この世とは思えない光景に立ち尽くす。
ごつごつした岩、石が積み上げられた賽の河原。
大小さまざまな仏像や地蔵。地獄に見立てた池の数々。
硫化水素のにおいが立ち込める。
そんな中を歩いてゆくと白い砂浜と群青色の水をたたえた宇曽利湖が見えてくる。

ここは「極楽浜」だ。
さらに順路を歩くと「胎内くぐり」となり、戻ってくる。
地獄→極楽→胎内という「死と再生のテーマパーク」ともいえる。
およそ1時間の散策で、「あちらの国」まで行って来たような奇妙な体験をした。
人知を超えた死霊の世界との接触場所をお前は信じるかと問われれば、ここに行ってみると信じると、応える人が多いだろうと思った。

14時50分 恐山を出発。
県道4号はカーブが多く急勾配だ。
薬研温泉を経由して大間崎を目指す。
およそ1時間、大間につく頃には青空が広がってきた。
下北半島の北端、大間崎は絶好の見晴らしに恵まれた。
遠く北海道もうっすらと見える。
海は穏やかでさわやか。
津軽海峡をはさんで、函館市汐首岬までわずか17.5キロメートル。
マグロのモニュメントは大間の漁師に一本釣りされた440キロのマグロがモデルだそうだ。

大間崎灯台は弁天島にある。
大間崎から沖合およそ600m。手前に見える真っ赤な社は、弁天神社本殿。漁船以外に渡る手段はない。
大間は何といっても日本一のマグロの水揚げで知られる。
午後の中途半端な時間だが、やはりここに来た以上マグロを食べないわけにはいかない。
土産物店で近くにマグロを食べさせてくれる店を教えてもらう。
「大間んぞく」という名の店を探し当てる。
ここで三色マグロ丼(3400円を食べた。口の中に濃厚なマグロの香りが広がる。

確かに「大満足」だ。
時計を見るとすでに5時近い。
陽が長い時期とはいえ景色を楽しみながら走ることを考えれば時間はない。
この時間のマグロ丼は夕食には早すぎるし微妙な食事となったがやむを得ない。


大間名物マグロ丼

とにかく先を急いで出発する。
大間から国道338号線を南下する。
下北半島を海岸沿いに走ると景勝地が続く。
海岸線の美しさは圧巻だった。
景勝地として知られるのが「仏ヶ浦」だ。
「仏ヶ浦」とは 如来の首、五百羅漢、一ツ仏、屏風岩、 天龍岩、蓮華岩、双鶏門、帆掛岩、 極楽浜などの名前が付けられた岩々の総称を指す。
本来はゆっくり歩いて散策したいところだが、残念ながら今回はその時間がない。


仏ケ浦

岬のカーブをくねりながら先を急ぐ。
交通量はほとんどない。
人にも出会わないのだが、思わぬ「遭遇」でブレーキを踏んだ。

猿だ。それもかなりの数。
道路の真ん中に家族の一団、母猿は赤ん坊を抱えている。
下北半島はサル類の世界最北限だそうだ。
クルマを停めてスマホで動画を撮るが逃げ出す風でもない。


猿の一群に出会う

猿と別れて相当飛ばし、19時ごろJR大湊線の終点大湊駅そばにある「フォルクローロ大湊」に到着した。
辺りはもう暗くなっていた。
十和田湖から、奥入瀬渓谷経由で十和田市現代美術館、そして恐山から大間、大湊へと相当頑張った一日だった。


★6月29日 土
朝5時に起きる。
雨は降ってはいないがどんより曇っていた。
「フォルクローロ大湊」はJR系列ホテルで大湊駅の敷地内にある。
ホテルは満室、今治のサッカーチームが団体で宿泊していた。
まずは朝食ビュッフェへ、ありきたりのものではあったが清潔感はあった。

食後そのまま散歩へ。
駅周辺は寂しいが、近くに神社とスーパー、コンビニを発見
梅雨前線の動きが活発化していると天気予報は伝えている。
今日の行程でどこから雨になるか、とりあえず行けるところまで行こうと考える。

本日最初に目指すのは八戸市の種差海岸だ。
景勝地だが、何より東山魁夷の「道」のモデルの地として知られている。
ここから三陸海岸を南下してゆくのが今日の行程だ。
大湊を出発しまずむつ市まで、2時間以上かかった。

国道279号を南下。
吹越あたりから太平洋側へ抜け県道180号線を六ヶ所村方向へ向かう。
三沢基地を通過。
国道338号、県道19号から八戸の埠頭を抜ける。
核燃料サイクルの地、六ケ所村は人口も少なく原野の中を道路だけが伸びている。
なぜ核燃料かと傍から見ると理解できない面もあるが、この村の現状を見て初めてカネと人がやってくる核施設に村の将来を賭けようとした思いに触れた気がする。
それに比べて八戸は東北有数の工業都市で、道路や港湾も整備され交通量も多く活気がある。
北東北の拠点都市であることを実感する。
県道1号線に入りJR八戸線と並行して走る。

10時半過ぎ種差海岸へ。
東山魁夷「道」の舞台である証明に海岸を見下ろす高台に碑が立っている。
今回来たかったところの一つだ。
車でないとアクセスが難しい。
天気は良くなかったが三陸有数の景勝地を目で確認する。


東山魁夷の絵のモデルになった種差海岸

さらに車を走らせ11時、三戸郡「はしかみハマの駅 あるでぃ~ば」で小休憩、魚介類の朝市をひやかす。
価格が安いのにびっくり。でも持って帰れないのが残念。
たこ焼き5個入りで150円。
卵焼き250円、おやき100円、ふ入りドーナツ80円を購入。
小腹を満たす。どれも安くて美味しかった。

岩手県久慈からはJRに変わり三陸鉄道沿いに走る。
陸中野田駅は「道の駅」も併設されている。

ここでランチ休憩。
「道の駅のだ」の2階の「レストランぱあぷる」で、ぱあぷるラーメン(帆立、海老、イカ、ムール貝)1000円。
売店で食べた塩ソフトクリームも美味。
駅前に「野田の牛方像」があった。
野田浜付近には10箇所に塩釜があったとのこと。
製塩された野田塩は鉄などとともに牛の背に積まれて運ばれた。

休憩を終えて再び車は国道45号の海岸線を南下する。
リアス式海岸の美しい海岸線沿いなのだが、海はほとんど見えない。
延々と白い巨大な堤防がつづく。
津波対策工事はまだ終わっていない。
巨費を投じて自然と戦うが、果たしてこの地から出て行った人たちがどれだけ戻ってこられるのか複雑な思いだ。
また観光客も来てほしいと三陸鉄道はじめ地元の観光関係者は力を尽くしているが、現実に長い堤防で遮られかつての景観を楽しむことができないなかで、観光地としての魅力をどうアピールすればよいか、前途は多難だ。


万里の長城のように防潮堤が連なる

13時50分 「道の駅たろう」着。
この辺りは津波被害がおおきかったところだ。
病院や学校などの無残な姿が、震災遺構として残され、将来にわたって保存されるように残されている。
また国道に標識が各所に作られ「ここから前方★メートル,後方▲メートルは過去に津波が来ました」と表示されている。
将来また津波が来た時に逃げる目安としてほしいということだろう。
今走っている国道が各地で寸断されたことを実感する。


道路沿いに津波が来たことを記す標識が並ぶ

大槌町、釜石市を通過。
まるで新興住宅地を行くように新しい家ばかり立ち並んでいることがかえって違和感を感じる。
広々とした道路の周囲はがれきが片付けられて整備されてはいるが、妙に空間が残り、かつての生活の匂いがなくなっていた。

14時20分 浄土ヶ浜に着く。
三陸有数の景勝地だ。
ここで車を降り、遊覧船に似る。

14時30分から40分間の遊覧船がちょうど出港間近だった。
三陸復興国立公園・三陸ジオパークの中心に位置する浄土ヶ浜は、鋭くとがった白い流紋岩が林立し、一つ一つ違った表情を見せて海岸を彩っている。
松の緑と岩肌の白、海の群青とのコントラストが売り物だ。

浄土ヶ浜の地名は、天和年間(1681~1683)に宮古山常安寺七世の霊鏡竜湖が、「さながら極楽浄土のごとし」と感嘆したことから名付けられたという。
浄土ヶ浜の岩肌は、5200万年前にマグマの働きによりできた流紋岩という火山岩で、二酸化ケイ素を多く含むため白い色をしている。
マグマが流れた模様「流理構造」やマグマが急に冷やされたときにできた板状の割れ目「節理」も見られる。

遊覧船は国の天然記念物や災害にも負けなかった海岸美を満喫できる約40分の湾内クルージングだ。
宮古湾を一周し、流紋岩の白と松林の緑が見事な「浄土ヶ浜」をはじめ、高さ40m・幅7mの棒状の巨岩「ローソク岩」、二つの巨岩が並ぶ「夫婦岩」、上方に勢いよく潮を吹く「潮吹穴」、複雑に入り組んだ絶壁が続く「姉ヶ崎」、絶滅危惧種のクロコシジロウミツバメの繁殖地「日出島」などを見て回る。
この遊覧船も東日本大震災で大きな影響を受けた。
このうち第16陸中丸は船長の機転でせまり来る津波を越えて沖へ避難、唯一残った遊覧船だそうだ。
ウミネコが舞う中、雨もやみ三陸の絶景を海から楽しむことができた。

15時20分 出発。
宮古市、大船渡市の海岸線、巨大な建造中の堤防を見ながら走る。
仮設住宅がまだ残っている。
雨がまた降ってきた。

17時過ぎ「ごいし荘別邸 海さんぽ」に到着。
碁石海岸は岩手県大船渡市の末崎半島東南端約6kmの海岸線で国の「名勝及び天然記念物」や国立公園に指定されている。
しかし津波で今回大きな被害を受けており、この宿ももともと海岸線にあったが全壊流失。
5年前過去の津波の高さ以上の場所に移転再開したという。

実際に宿泊してみると、魚介類は新鮮豊富、調理の腕も素晴らしく、これならまた千客万来も夢ではないと思った。
まだ若い経営者の前途を祈らざるを得ない。


★6月30日 土
4時起床、朝風呂に入る。
温泉ではないが気持ちがいい。
朝食はビュッフェ形式で、おそらくご主人が一人で用意したようだが、蕎麦やメロンまで豊富な品ぞろえで大満足だった。

まだ雨は降り続いている。
チェックアウトし、改めて外からこの宿を見ると海岸近くにあるがなるほど高台に建てられている。
海岸線まで近くだが、一段高いところに建物が引っ越した感じだ。
土砂降りでせっかくの海岸の美しい景色を楽しむこともできずに早々に松島へ向かう。

国道45号を北上、大船渡市内は相変わらず防波堤が続く。
「奇跡の一本松」があったあたりも広々と整地作業が進んでいた。
時折病院やアパート、学校など災害遺構で残された建物を見かける。

震災遺構の陸前髙田市立気仙中学校。
「ぼくらは生きる ここで このふるさとで」と書かれていた。
登米市から部分開通の三陸道に乗り、松島北インターまで一気に駆け抜ける。

11時半松島町着。
駐車場を探し、円通院に向かう。
円通院は臨済宗妙心寺派の寺院で三陸三十三観音霊場の第1番札所とされている。
伊達政宗の孫、光宗の菩提寺で正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により三慧殿が建立された。
三慧殿は別名御霊屋(おたまや)とも呼ばれ技術の粋をつくした伊達家屈指の建築物で国の重要文化財に指定されている。
その厨子には支倉常長が西洋から持ち帰ったと伝わるバラの絵が描かれており、円通院はこのバラを題材にした庭のある「バラ寺」として知られている。

この寺の魅力は何といっても庭園だ。
緑豊かな落ち着いたたたずまい、そしてバラが日本庭園に程よく配され、見る人の目を楽しませている。
本堂の大悲亭は光宗の江戸納涼の亭として使われていた建物を解体移築したものだ。
松島には何回か来ていたが円通院は初めてで、小雨に煙る庭園散策を楽しんだ。


圓通寺

その後隣接する瑞巌寺へ。
瑞巌寺は臨済宗妙心寺派の寺で、天長5年(828)比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が淳和天皇の詔勅を奉じて寺を建立、延暦寺と比肩すべきと延福寺と命名した。
平泉の藤原氏の守護を受け、藤原氏滅亡後は鎌倉幕府の保護を受け北条政子が仏舎利を寄進している。
関ヶ原の戦いの後、伊達政宗は仙台城の造営と併せて塩竃神社・仙台大崎八幡宮・陸奥国分寺薬師堂を相次いで完成させるとともに瑞巌寺の造営にも心血を注いだ。
用材を紀州(和歌山県)熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運び、梅村彦左衛門家次一家や、刑部(鶴)左衛門国次ら名工130名を招き寄せた。
工事は慶長9年(1604)から丸4年の歳月をかけ、110余りの末寺を有する領内随一の規模格式を誇る寺となった。

明治維新後廃仏毀釈と伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃により衰退したが明治9年(1876)天皇の行在所となり内帑金千円が下賜され、復興の契機となった。

現存する本堂・御成玄関、庫裡・回廊は国宝に、御成門・中門・太鼓塀は国の重要文化財に指定されている。
公開されている庫裡を中心に見学したが、東北随一の風格を持つ寺は落ち着いたたたずまいで、伊達家の隆盛をしのぶことができる。


瑞巌寺

瑞泉寺を出て海に向かうと、遊覧船の船着き場に隣接したところに五大堂がある。
瑞泉寺の付属施設という位置づけで慶長9年(1604)伊達政宗が造営した。
東北地方最古の桃山建築で軒まわりの蟇股に、方位に従って十二支の彫刻が配してある。
慈覚大師手彫りと伝えられる厨子内の五大明王は、平安時代中期に制作された秘仏だ。
堂へ渡るすかし橋は、縦板が2枚しつらえられているが、もともとこの板はなくはしご状だったという。
津波の被害を受けた松島湾に突き出した五大堂に一日も早い完全復興を祈った。

松島の観光を終え塩釜へ向かう。
ここにある鹽竈神社は東北鎮護・陸奥国一之宮である。
平安時代の建立と伝えられ、その後平泉の藤原氏や伊達氏の崇敬を受け、歴代藩主が大神主を務めてきた。
現在の社殿は伊達家四代綱村から五代吉村に亘り9年の歳月をかけ宝永元年(1704)に竣工された。
社歴にふさわしい広大な境内と荘厳な社殿で、一の宮としての風格を漂わせている。
6月末日ということで茅の輪が設けられ雨の中だが茅の輪くぐりをする参拝客の姿も見られた。


鹽竈神社の茅の輪

ここから仙台はもう近い。
今回はあえて混雑する市内に宿を取らず、仙台港近くの三井アウトレットパーク近くで温泉併設の「ドーミーイン 海神の湯」に予約をした。
車でのアクセスを考えると大都市は郊外の宿が楽だ。
比較的早く着いたのでそのままアウトレットを散策してからホテルへ。


★7月1日 月
6時30分 朝食後、温泉に。
8時半出発。
仙台空港線から常磐道へ。
浪江で降りて国道6号をいわきまで走ることにした。

原発事故のコースをたどる。
国道6号は走ることはできたものの、左右の側道へは帰宅困難区域で入れないところが多い。
すれ違う車は除染土を運ぶトラックなど作業車ばかり。
地元の人たちの自家用車とはほとんど出会わない。
原発事故現場に近づくと道路に備えられたモニタリングポストの数値が上がってくる。
左右の風景はまるで映画のセットのように荒廃したまま放置されている。
ガラスが叩き割られたコンビニ。
ガソリンスタンド、紳士服チェーン店、パチンコ店、ファミリーレストラン・・・。
壊れたままの看板、ネオンサインなど片づけられもせず時が止まったままだ。
田畑も草ぼうぼうで、人の手が入っていない。
国道に面した民家は入り口に一様に鉄の柵が張られ、立ち入りができない。
国道から左右に折れる道にも柵が置かれ係員がたっている。
許可のない人の立ち入りは制限されていた。

あれから9年、時計が止まった町を間近に見て、復興どころではないという現実を突きつけられた思いがした。
いわきから常磐道に乗り、スムーズに帰宅した。


帰宅困難地域の住宅の前には柵が作られていた

一週間走行距離2000キロ。
病み上がりではあったが無事に運転することができた。
震災後の東北、そして新緑の十和田など見所多く飽きない旅であった。