乗車日 2020年9月
鉄道を利用する理由は目的地に行くためという人が多いのは当然だろう。
しかし今日乗る鉄道に限っては目的地がある人よりは、乗ることそれ自体が目的という人が多いようだ。
大井川鉄道。
江戸時代に橋がなく旅人が苦労して渡ったことで知られるあの大井川だ。
その大井川の下流、東海道線と接続する金谷という小さな駅を基点にしているのが大井川鉄道である。
大井川本線金谷・千頭(せんず)間39.5キロとその千頭から先の井川(いかわ)までの25.5キロからなる。
両線およそ65キロを往復すれば130キロだが、この往復にざっと6時間はかかる。
しかし本線にはSLが走り、また「南アルプスあぷとライン」という別名のある井川線では急こう配を上るアプト式鉄道が日本でここだけ採用されている。
絶景の風景とともに一度は乗ってみたいという鉄道ファンの聖地なのである。
私は以前金谷・千頭間を走るSLには乗車したことがあったので、今回のお目当ては
その先の千頭・井川のあぷとラインである。
とくにテレビや雑誌で屈指の絶景駅と紹介していた「奥大井湖上駅」を見て、是非行ってみたいと思っていた。
「青春18きっぷ」で九州まで行った帰り東海道線島田駅に降り宿泊、翌日隣の金谷駅に
向かうという計画を立てた。
金谷を8時59分発の大井川本線に乗れば、千頭に10時14分に着き、5分の待ち合わせで「南アルプスあぷとライン」に乗り継げ、12時06分に井川に着く。
片道3時間、往復6時間というわけだ。
島田から金谷まで一駅。
何しろ金谷駅周辺にはコンビニ一軒見当たらない。
宿は隣の島田にせざるを得なかった。
JRの駅舎に隣接して大井川鉄道の駅がある。
駅員が一人、二日間使える「大井川周遊きっぷ」大人4,900円をくださいと申し出る。
これだと金谷・井川往復が6,360円だから往復するだけでも安い。
「実は、期間限定で割引の周遊きっぷがあるんです」と駅員。
なんと2,450円なのだ。
つまり割安の周遊きっぷがさらに半額になるというわけだ。
思わず声を出してしまった。
正規料金より4,000円近い値引きは大歓迎である。
駅員に聞くと、千頭にも井川にも売店はなく車内販売もないという。
多分乗客の多い休日でもないかぎりそんなことではないかと、島田駅の売店でおにぎりと
菓子パンを買っておいた我が先見性に満足する。
折り返し列車が入線してきた。
これがまたレトロな、驚くような車両だ。
地方の民鉄はどこも経営が厳しく、車両に関しては大手私鉄やJRがかつて使っていた車両の払い下げで賄っており、都会で活躍していた車両が第二、第三のお勤めを地方でしている場合がよくある。
いま入線してきたのは緑色をベースにした元南海電鉄高野線で活躍していた21000系と呼ばれるものだった。
ワンマン運行に必要な改造や連結側のパンタグラフの撤去などが行われたあと、大井川
鉄道本線を走っている。
一言でいえば相当にくたびれている容貌であった。
レトロな形状の車両、モスグリーンのボディの色も剥げかかっていた。
車内に入ると向かい合わせのボックスシートも、ロングシートも相当にくたびれていて
スプリングの効き具合も甘くなっていた。
実はこの車両、不具合が生じていて一つ隣の新金谷駅で急遽別の車両と交換するという
アナウンスがあった。
まあ不具合も出ておかしくないなと十分納得する老体であることは間違いない。
定刻8時59分金谷発。
一駅目の新金谷駅は「大井川鐡道」の本社がある拠点駅だ。
そこに取り換え車両が用意されていた。
向かいのホームに待っていたのは「東横線」だった。
7200系と言われるステンレス製の車両は東横線や日比谷線直通の電車として記憶があった。
一両単独での運行ができるように車両の前後に運転席が設けられていた。
また扉は一両に3つ設置されているが、大井川鉄道では真ん中の扉は使用していない。
後ろの扉から乗り、前の運転席横の扉で降りるワンマン運転が基本だ。
故障のお陰でレトロな車両とこの「東横線」を二種類体験できることとなったわけだが、「東横線」の横並びロングシートだと都会の通勤電車に乗っているような感じがする。
やはりローカル線は向かい合わせのボックスシートのほうが向いていると思う。
大井川本線は千頭まで19の駅がある。
川幅ひろく雄大な流れの大井川に沿って川上へと向かってのんびり走る。
途中駅で乗り降りする人はほんのわずか。
始発から乗り千頭でその先の「南アルプスあぷとライン」へ乗り継ぐ観光客あるいは鉄道マニアがほとんどだ。
大井川鐵道の鉄道事業収入は、沿線人口の減少などから9割をSL乗車などを目的とする
観光客から得ている。
定期券利用は収入ベースで1割以下、乗客数で約2割という。
それだけに東日本大震災の時も今回のコロナによる自粛も団体バスツアー客などが減少、厳しい経営にさらされている。
また2013年から高速バスの走行距離の規制が強化され、沿線自治体への首都圏からの日帰りが不可能となって団体ツアー客がさらに減少したという。
10時14分定刻に千頭着。
乗客は一度改札を出て隣接する「南アルプスあぷとライン」のホームへと移動する。
「南アルプスあぷとライン」は大井川上流部の奥大井渓谷を走る日本唯一のアプト式列車で、正式名称は大井川鐡道井川線だ。
大井川水系のダム建設のために造られたという経緯がある。
途中の「アプトいちしろ」駅と「長島ダム」駅の間に90パーミルと言って
1000メートル進むうちに90メートル上るという日本一の急こう配区間がある。
この区間を通るためにアプト式機関車を連結する。
アプト式とは、2本のレールの真ん中に歯車レール(ラックレール)を敷き、それに
アプト式電気機関車の床下に設けられた歯車(ラックギア)をかみ合わせて急こう配の線路を登り降りしている。
その機関車を連結したり、切り離す作業も乗客は見学できるのが売り物だ。
7両と意外にも長くつないでいる車両だが、乗っているのは各車両数人にすぎない。
本来なら団体ツアー客などでいっぱいなのだろうが、コロナは渓谷の奥深く入りゆく
山岳鉄道にも容赦なく襲い掛かっている。
一人の車掌が各車両を一駅ごとに手動扉を開閉しながら移動してゆく。
駅に着けば乗降客をチェックし安全確認の笛を吹く。
飛び乗るとそれぞれの車両に備え付けられているマイクで沿線ガイドを始めるから
なかなか忙しい。
列車速度は速くはないが、緑の木間を縫い開け離れた窓から心地よい風が入って気持ちがいい。
見下ろす位置に大井川が並走するが、次第に上流に入り深みを増しているようで、水の色も薄い青から濃い緑色へと変わってきている。
山と川を美しく映えさせているのはやはり明るい陽の光である。
残暑厳しく今日も平地では35度を予想しているが、高地のこの辺りは30度を下回っているはずだ。
当初今日の天気予報は下り坂で心配していたが、当面往路は心配なさそうだ。
千頭までの大井川本線と比べても渓谷美の鮮やかさがひときわ際立つ。
なかでも圧巻はやはり「奥大井湖上駅」だろう。
湖の真ん中に駅があるのだ。
長島ダムのダム湖である接阻湖に浮かぶ湖上の駅だ。
湖にかかるレインボーブリッジと呼ばれる橋の上の駅からの眺めはテレビの秘境番組や
雑誌のグラビアでもおなじみだ。
列車は深緑色の湖に架かるレインボーブリッジを渡り始める。
やがて湖の真ん中の半島部に停止する。
そこが湖上駅だ。
ドローンで空中から見たほうがより分かりやすいかもしれないが、なるほど確かに周囲は湖だ。
大きな施設があるわけでもないが、それでも降りる人、また乗ってくる人がいる。
ホームを見ると幸せを呼ぶ鐘「ハッピー・ハッピー・ベル」があり、恋人たちの聖地になっているという。
この駅では結婚式も数多く行われているそうだ。
列車は再び出発、狭い渓谷の尾根を縫い、いくつものトンネルを潜り抜け
終点井川着12時6分。
折り返しで戻るのだが、それまでの30分近く売店さえなく駅では時間の潰しようがない。
少し歩くと井川ダムがあるのでそこまで行って写真を撮ってきた。
このダムをつくるために敷設した鉄道なのかと、山の中の難工事にしばし思いを巡らす。
12時33分井川発。
来た道を再び戻る。
先ほどまで青空が広がっていたが、急速に雲が広がり帰路は雨模様となった。
天気予報通りである。
午前中たっぷりと自然を満喫したので「まあ、いいか」と気分は悪くはない。
途中何も買えなかったので朝島田の駅売店で買ったおにぎりと「ランチパック」で簡単に腹ごしらえをする。
長島ダム駅では再びアプト式機関車を取り付けられた。
隣の「アプトいちしろ」駅までの間今度は下り急こう配をゆっくり降りるブレーキ役を
担ってくれる。
千頭着14時21分。
あぷとラインから大井川本線に乗り換え。
21000系のレトロ車両のスプリングがやや緩いボックス席に座ると眠気が襲う。
目が覚めると雨はやんで青空がのぞいていた。
いつのまにか車窓の大井川も急峻な上流から緩やかな川幅広き大河の姿になっている。
金谷着15時47分。
新幹線で東京新大阪を往復するよりも長い、往復6時間の鉄道の旅は目的地に向かうのとは全く違う旅の魅力を教えてくれるものであった。