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西村晃の路地を曲がれば、もう旅人

第31回 3月 「都バスの旅」へようこそ

東京で暮らしていると、通勤で使っているという人を除けば、仕事でバスを使うケースは少ないのかもしれない。
交通渋滞の中でバスは約束を守るのに向いている交通機関とは言い難い。
しかし、「レジャーの乗り物」としてとらえなおしてみると、これがなかなか面白いのだ。
私も日々の仕事での利用はほとんどないが、休日を利用して時々これはと思う路線を利用している。

東京には都営バス(都バス)と民営バスが走っている。
民営バスの多くは電車の駅から近隣をめぐる比較的近距離の路線が多いが、都バスの場合は生活エリアのかけ離れた地域を縫うように走っている遠距離路線が結構ある。
例えば新宿駅西口から環状7号を北上して王子駅に向かう路線や、JR大塚駅から錦糸町駅を目指すものなど、都内を縦横無尽に走る。
その裏にはかつて都電が走っていたところに廃止に伴う代替交通として都バスが走り始めたといった事情もあるようだ。

平日渋滞するときには始点から終点まで一時間以上かかるケースも多いと思われるが、実際に乗ってみるとバスのお客さんは短い距離の利用者が多い。
自分の必要に応じて都バスを乗りこなしている。
とくに都民は申請すれば70歳以上になれば年間一定金額を収めると都バスと都営地下鉄それに都内を走る主な民営バスが乗り放題になるから、病院通いなどの足としてバスを利用しやすい。
バスがお年寄りの乗り物になっている理由にはこれがある。

バスは乗用車と違い外を眺めるのに高い位置から見ることができる。
これが新鮮な視点だ。
だから私が好んで座るのは最後尾の一段高い席である。
ここはまさに特等席、外の景色も両サイド見渡せるし、乗っては降りるお客さんたちの観察にももってこいだ。
だから電車の中ではひたすらパソコン仕事に精を出す私も、バスに乗れば車窓からの眺めと車内の人間模様の観察に集中する。

今日もそんな「旅」をしてみようと、街に繰り出した。
降り立ったのは池袋駅東口。
実は本日の目的地は浅草だ。
一年を締めくくる「終い市」が開かれている。
通称「羽子板市」である。
毎年12月の17日18日19日にこの市が開かれ、これが終わると浅草寺は初詣の準備が本格化する。

自宅から直接浅草に行けば簡単なのだが、本日はあえて池袋から都バスでゆっくりと年末の東京の風景を眺めながら行こうと思いたった。
スケジュールが埋まっているときにはできないことであるが、私の仕事は年末年始になると仕事相手が忙しいので空くことから、こういう時を選んで「旅」を考える。
そう、まさに「小さな旅」に出る感覚だ。
永六輔さんは「路地を曲がればもうそれは旅」と語った。
この連載のタイトルもそこから頂いた。
わずが200円で旅に出る、それが都バスの旅行である。


絶好の日和

天気は快晴、寒いがバス旅には絶好に日和、池袋駅西武百貨店前のロータリーのバス乗り場で「浅草寿町」に向かうバスを待つ。
定刻11時20分、都バスが停留所に入ってきた。
「草63」というプレートを確認する。
前のバスが行って10分弱。
最初は人がいなかったが、気が付くと列ができていた。
日中でもそこそこの需要あり、ということだ。
先頭に並んでいた私は、もちろん最後部の端の席を占める。
並んでいた人がみな乗車すると座席はほぼ埋まった。
ほとんどがお年寄り、会社に勤めているような服装の人は見当たらない。

すぐに発車する。
池袋駅前を出たバスは明治通りをまず北に向かう。
その後西巣鴨から白山通りへ、さらに不忍通りからJR山手線の西日暮里駅を経由して明治通りに再び戻り、大関横丁から国際通りに入って浅草を目指すことになる。


出発時点での車内、最後部から見るのが特等席

「上池袋一丁目」、「上池袋四丁目」と細かく停車してゆく。
新たにお客さんが増えて立っている人も出てきた。
明治通りは日中それほど交通量も多くはなく順調な滑り出しだ。
年末の街だが、都内の道路事情はこのところかなり改善しているのではないだろうか。
まず高速道路が流れるようになった。
都心環状線の渋滞の緩和が著しいのは中央環状線と圏央道がほぼつながったことが大きい。
東京に流入する車の7割が実は東京に用事がない車だと言われていた。
主な高速道路は東京起点に作られているから東京に用事がない車も半世紀前に作られた都心環状線という片側2車線、一周15キロのこのリングに集まってくるため渋滞が慢性的、そのため高速入口が閉鎖されることも多く都内一般道路も渋滞になっていた。
ラジオの交通情報を聞いていればわかるが最近は、渋滞による高速道路の入り口閉鎖はほとんどなくなっている。
このうえさらにオリンピックまでに外環状線が完成すれば、首都高速道路の環状線は合計4本となり、東京に用事がない車は都内に入らず目的地に向かうことができるようになり、混雑はさらに減るだろう。
高速道路が流れれば当然都心一般道路もその恩恵を受けるはずだ。

今バスが走っている明治通りは都心を環状する。
高速道路と同じように一般道路も東京を環状する道路が何本かある。
よく知られているのが環状7号(環7)と環状8号(環8)だ。
7と8があるならもちろん1から6までもある。
しかしこの6本は通称で呼ばれることが一般的だ。
環状1号は内堀通り、2号は外堀通り、3号は完全にはつながっていないが外苑東通り、目白通りなど、4号は外苑西通り、5号はいま走っている明治通り、6号が山手通りのことである。
こうした環状線は便利がいいので車が集まりやすく、これまでは高速道路をはみ出した車と、地元のバスなどが混在し渋滞になりがちだったわけだ。

しばらく走ると学校が右手に見えてきた。
大正大学だ。
仏教系のこの大学は創立が1926年、交差点のバス停は「西巣鴨」、都営地下鉄の駅もあり乗降客は多い。

ここの交差点をバスは右折、白山通りに入る。
バスは「とげぬき地蔵前」そして「巣鴨駅前」と停車する。
とげぬき地蔵はおばあちゃんの原宿と言われるようにかねてよりシニア層に人気がある。


「おばあちゃんの原宿」の表玄関

高岩寺の縁日は4の日、この日には5万人もの人が訪れるという。
巣鴨というところは70歳を過ぎた人には山手線以外は都営地下鉄に都バス、都電と優待パスが使える乗り物でアクセスできる。
これは「おばあちゃんの原宿」が隆盛となるのに大いに意味があったと思う。

「とげぬき地蔵」で一度下車することにした。
巣鴨地蔵通りは江戸時代、中山道の出発地点日本橋から出発して最初の休憩所が江戸六地蔵尊のひとつ眞性寺から巣鴨庚申塚の間に点在したことがきっかけで町並みが作られた。
とげぬき地蔵尊「高岩寺」は、もともと上野にあった。
正式には曹洞宗萬頂山高岩寺といい、慶長元年(1596年)に江戸湯島に開かれ約60年後下谷屏風坂に移り巣鴨には明治24年(1891年)に移転してきた。

ある時江戸小石川に住む田付という人の妻が重い病に見舞われた。
夫は妻が日頃信仰する地蔵尊に病気平癒を祈願した。
田付氏の夢に僧が現われ、「私の像を彫刻して川に浮かべなさい」という。
夢からさめると何か木のふしのようなものが置いてあった。
それは地蔵菩薩の御影だった。
田付氏はこれを河水に浮かべると、翌朝から夫人の病は去ったという。
この話を聞いた西順という毛利家に出入りする僧が、ぜひその御影を頂戴したいというので田付氏が渡した。
その後毛利家の女中の一人が、あやまって口にくわえた針を飲み込み苦しみもがいていた時、西順が地蔵尊の尊影を飲ませたところ、間もなく女中は腹の中のものを吐き、その中に飲み込んだ針が地蔵尊の御影を貫いてでてきたという。

これがとげぬき地蔵のいわれである。

高岩寺の境内に長い行列ができている。
洗い観音という。
江戸時代最大の火事「明暦の大火」で、檀家の一人「屋根屋喜平次」は妻をなくし、その供養のため、「聖観世音菩薩」を高岩寺に寄進した。
この聖観世音菩薩像に水をかけ、自分の悪いところを洗うと治るという信仰がいつしかうまれた。
これが「洗い観音」の起源でみながタワシで洗っていたので聖観世音菩薩の顔などもしだいにすりへってきたので、タワシを廃止し布で洗うことになった。
この日は、とげぬき地蔵商店街は縁日の日ではなかったが、たくさんの人で賑わっていた。
とくに洗い観音前には白い布をもって年配者が長い行列を作っていた。


参拝で賑わう高岩寺

参拝を終えて商店街を引き返しながら白山通りまで戻ると、一番大きなビルが巣鴨信用金庫である。
この信金はとげぬき地蔵の商店街の店を顧客に持ち積極的に地域貢献をしてきた。
92年以来縁日のある「4」の付く日の営業日に、参拝客向けに本店の3階を「おもてなし処」として開放し、だれでも無料で利用出来るようにした。
また月1回は若手落語家による落語公演も行われている。
お茶や菓子の差し入れもあり、参拝者はここで一休みすることを楽しみにしている。
商店街の一番の泣き所はトイレや休憩スペースが足りないことだが、地域密着の信金がそれを提供することで何より商店街のサポートをしているわけだ。

たくさんの参拝客が、一休みをして顔なじみと世間話に花を咲かせる。
何しろ4の日の縁日、10日ごとに巣鴨に来ている人も多いからお互い名前は知らなくても「いつものあの人」という感じで顔見知りが多いのが巣鴨の特徴だ。
その出会いと交流の場を信金が果たしている。


巣鴨信用金庫

「巣鴨駅前」から再び浅草寿町行きのバスに乗る。
このバス停ではかなり乗降客の出入りがある。
白山通りを進むと、すぐに東洋大学がある。
カーブをまわりこむと根津神社の横を通り、団子坂下の交差点から今度は不忍通りへと出る。

根津神社は古くは「根津権現」とも呼ばれた。
日本武尊が1900年近く前に創建したと言われる。
境内はツツジの名所として知られ、森鴎外や夏目漱石といった日本を代表する文豪が近辺に住居を構えていたこともあり、これらの文豪に因んだ旧跡も残されている。
5代将軍綱吉のとき社殿が造営された。


ツツジで有名な根津神社

バスが通る「不忍通り」に千代田線の「千駄木駅」がある。
谷中、根津、千駄木をまとめて「谷根千(やねせん)」と呼ばれ、最近注目を集める下町散歩スポットになっている。

谷中銀座商店街は外国人観光客も多く詰めかけるようになった。
日暮里駅方面から谷中銀座に下る階段を「夕焼けだんだん」と呼ばれるが、夕焼けが美しいことと下町情緒が感じられる名前として、森まゆみが命名した。
階段の高低差は4メートル、段数は36段、幅は4.4メートルあり、長さは15メートルとなっている。
階段上から谷中銀座を見下ろす風景は絶景スポットにもなってマスコミに広く紹介された。

階段の下には「谷中ぎんざ」と書かれたゲートがある。
また、階段には野良猫・飼い猫を問わず、沢山の猫が集まっているので「夕やけにゃんにゃん」と呼ばれることもある。
コロッケやソフトクリームに立ち食い風景は今や外国人観光客にとっても定番になりつつある。


谷中銀座

私が乗ったバスは「西日暮里駅前」をとおり、再び「明治通り」に入る。
「明治通り」沿いに日比谷線の「三ノ輪駅」がある。
「三ノ輪」とは、言葉の由来は「水の鼻」、この地が昔海に突き出た岬のような形だった。
都電の終点は「三ノ輪橋」、昭和初期まで音無川があった時には橋があった。
水戸へ去る徳川慶喜はここで山岡鉄舟と別れを惜しんだことで歌舞伎の名場面としておなじみだ。
「三ノ輪駅」の裏通りに「浄閑寺」がある。
ここは吉原遊郭の遊女たちの投げ込み寺として知られている。
安政の大地震(1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことから投げ込み寺と言われるようになった。

三ノ輪駅付近の明治通りとこれからバスが曲がる国際通りの交差点は、「大関横丁」と呼ばれる。
大関というから相撲とのかかわりを連想する人も多いが、実は「大関」とは人名だ。
大関氏は、現在の栃木県にあたる下野の大名・那須氏を支えた那須七党呼ばれる武士の家系である。
大関高増は豊臣秀吉の小田原征伐に従い、1万3000石の所領を安堵された。
関ヶ原の戦いのとき、大関資増は東軍について下野小山に参陣した後、領国に戻って西軍側の会津の上杉氏の動きに備えた。
その戦功により徳川家康から加増され2万石の大名となった。
黒羽藩下屋敷へ通じる道を大関横丁と言った。

その大関横丁を右折してバスは国際通りに入る。
かつて浅草国際劇場がこの道路沿いにあったことからこの名前が付いたが、今はそれを知る人も少数派になっているようだ。

この道路沿いにあるのが酉の市で知られる「鷲(おおとり)神社」だ。
鷲神社は、日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀り、武運長久、開運、繁盛の神として信仰される。
浅草の鷲神社 の裏に新吉原が位置し、酉の市の日には遊郭内が開放されたといわれ、地の利も加わり最も有名な酉の市になった。
市の日には熊手を売る店150店、その他露天750店が並ぶ。


酉の市では熊手が飛ぶように売れる

吉原は江戸幕府によって公認された遊廓があったところ。
最初は現在の日本橋人形町近くにあったが明暦の大火で焼失しここに移転した。

鷲神社を過ぎるともう浅草は近い。
一口に浅草と言っても銀座線浅草駅方向から雷門を経て浅草寺に向かうルートを表口とすれば、旧六区方面からは以前は電車でのアクセスがなかったが、つくばエクスプレスの開通により、国際通りに浅草駅ができて浅草寺に西側から行く人の流れができた。
通りに面している浅草ビューホテルも外国人観光客をはじめ多くの人の来客で輝きを取り戻した。
何しろ客室やレストラン宴会場から「東京スカイツリー」を正面に眺めることができるようになった。
「ビュー」のほうが後からついてきたのである。
まさに「浅草を臨むビューホテル」である。


国際通りで降りて浅草寺へ

浅草から見る「東京スカイツリー」

つくばエキスプレス浅草駅の近くでバスを降りる。
池袋から大きな渋滞もなかった。
浅草は相変わらず外国人でいっぱい。

年の終い市である「羽子板市」は今日が三日間の最終日。
仲見世などはすでに、正月の飾りつけ作業が並行して進んでいた。


バス停から仲見世に向かう途中の行列の店



正月準備も進む羽子板市の仲見世

年の瀬の下町を散策するには、いつものビジネスの目線とは離れたとはちがう気持ちで臨みたい。
のんびりと都バスなのにとばさない、バスの旅。
いつもの街を再発見する楽しみにあふれていた。


参拝を終えて振り返りました



羽子板市は一年の締めくくり